≪全文≫
第三次桂内閣は評判こそ悪かったものの、さすがの桂だけに、このときも非常に良いことをしている。それは陸軍大臣に木越安綱(きごしやすつな)中将を任命したことだ。
木越中将は金沢生まれで陸軍の教導団出身である。陸軍教導団とは明治4年(1871)から明治32年(1899)まで置かれた、下士官を養成する教育機関である。木越中将は一兵卒として陸軍に入隊したが、成績が優秀だったので教導団に入り、そこでも頭角を現わしたため、陸軍士官学校に進んだ。士官学校でも優秀な成績を収めている。木越中将はドイツ留学後に桂太郎とともに軍政改革に尽力したあと、日清戦争(明治27年〈1894〉~28年〈1895〉)では第三師団長・桂太郎のもとで参謀長を務め、功績を上げている。その後、もちろん日露戦争でも大活躍をしているが、桂太郎としては旧知の木越中将を気の置けない後輩として陸軍大臣に抜擢したのであろう。
桂内閣はわずか3カ月で倒れてしまうが、その後に発足した第一次山本権兵衛内閣(大正2年〈1913〉2月20日~3年〈1914〉4月16日)でも、山本首相は木越中将を陸軍大臣に留任させている。
先にも述べた通り、二個師団増設問題で上原陸相が辞職し、第二次西園寺内閣が倒れたことから、国会から「軍部大臣が内閣を潰せるようなことでいいのか」という声が上がった。山本首相も国会での質問に対して、「それはやはりまずいのではないか」と答えているが、軍部の同意がなければ話にならない。そこで山本首相が相談したのが木越陸相であった。
木越中将は、当時、陸軍の医務局長だった森鷗外と公私にわたる親交があったといわれる。東京大学名誉教授の小堀桂一郞氏は、森鷗外と木越中将を結ぶものがクラウゼヴィッツの『戦争論』ではなかったかといっている。
一般にはあまり知られていないが、クラウゼヴィッツの著書『戦争論』はいわゆる文民統制論である。『戦争論』には、「戦争は政略の継続にして他の手段を用いるものなり」という有名な言葉がある。つまり、戦争は形を変えた政治であり、戦争をするのかやめるのかを決めるのは政治であって軍隊ではないということだ。
そんな『戦争論』を知っていた木越中将はシビリアン・コントロールの原則を理解し、陸軍部内の反対を押し切って、「陸海軍大臣は現役の大将と中将に限る」という規定を削除することに同意した。陸軍大臣と海軍大臣は現役ではなくてもよい(軍部大臣現役武官制の予備役・後備役への拡大)という決定は、まさに木越中将の面目躍如たるものがある。この決定により、首相が然るべき人物を陸海軍大臣に選べるようになったのだ。
これが大正2年(1913)6月で、大正初期のことだから、いわゆる大正デモクラシーは、軍部がシビリアン・コントロールの統制下に置かれた時代の産物だと考えられる。その時代の基盤をつくったのがまさに木越中将だったのである。
ただし、そのために彼は徹底的に陸軍内部から憎まれ、大将には昇進できなかった。陸軍軍人としては、自分のキャリアを捨てたのである。
すでにご登録済みの方はこちら
大正デモクラシーにも影響を与えたといわれるドイツの書物
本当のことがわかる昭和史《2》軍縮ブームとエネルギー革命の時代「明治の精神」の死(2)シビリアン・コントロールを知っていた木越安綱
上智大学名誉教授
情報・テキスト
クラウゼヴィッツ『戦争論』
大正初期の1913年、内閣をも潰してしまう軍部大臣現役武官制の規定が削除された。シビリアン・コントロールを理解していた陸軍大臣・木越安綱中将の「ガッツ」によるものだ。上智大学名誉教授・渡部昇一氏によるシリーズ「本当のことがわかる昭和史」第二章・第2話。
時間:05:56
収録日:2014/12/15
追加日:2015/08/17
収録日:2014/12/15
追加日:2015/08/17
カテゴリー:
会員登録すると資料をご覧いただくことができます。
同じシリーズの講義
-
1 日本の近代史の大きな転換点は明治天皇の崩御だった 本当のことがわかる昭和史《2》軍縮ブームとエネルギー革命の時代「明治の精神」の死(1)「明治精神」の死 -
大正デモクラシーにも影響を与えたといわれるドイツの書物 本当のことがわかる昭和史《2》軍縮ブームとエネルギー革命の時代「明治の精神」の死(2)シビリアン・コントロールを知っていた木越安綱 -
3 当時の海外でも人気を博した小説は「大正」という時代の産物 本当のことがわかる昭和史《2》軍縮ブームとエネルギー革命の時代「明治の精神」の死(3)「みんなみんなやさしかつたよ」 -
4 山県有朋がつくった軍部大臣現役武官制がやがて大問題に 本当のことがわかる昭和史《2》軍縮ブームとエネルギー革命の時代「明治の精神」の死(4)ドイツでさえ軍部大臣現役武官制ではなかった -
5 朝日新聞の誤報がもたらしたその後の影響は計り知れない 本当のことがわかる昭和史《2》軍縮ブームとエネルギー革命の時代「明治の精神」の死(5)些細なことが大きな出来事に -
6 第一次世界大戦への日本の参戦理由と寄せられた感謝 本当のことがわかる昭和史《2》軍縮ブームとエネルギー革命の時代「明治の精神」の死(6)連合国から感謝された日本艦隊 -
7 なぜ二十一カ条の要求が猛批判されたか…暴露された第5号 本当のことがわかる昭和史《2》軍縮ブームとエネルギー革命の時代「明治の精神」の死(7)シナの宣伝で嵌められた「対支二十一カ条」 -
8 尼港事件…ニコラエフスクで700人の日本人が虐殺される 本当のことがわかる昭和史《2》軍縮ブームとエネルギー革命の時代「明治の精神」の死(8)シベリア出兵と尼港事件の惨劇 -
9 第一次大戦のドイツの敗北は「軍人の敗北」 本当のことがわかる昭和史《2》軍縮ブームとエネルギー革命の時代「明治の精神」の死(9)「軍人には娘を嫁がすな」 -
10 ワシントンに赴き日英同盟破棄に反対した渋沢栄一の危機感 本当のことがわかる昭和史《2》軍縮ブームとエネルギー革命の時代「明治の精神」の死(10)日英同盟廃棄という致命的な失敗 -
11 アジアの解放を成し遂げようという動きが在野に広まる 本当のことがわかる昭和史《2》軍縮ブームとエネルギー革命の時代「明治の精神」の死(11)尊王攘夷とアジア主義 -
12 アメリカは中国で大きな影響力を持つ日本が許せなかった 本当のことがわかる昭和史《2》軍縮ブームとエネルギー革命の時代「明治の精神」の死(12)日本はアメリカにしてやられている -
13 石井・ランシング協定、九カ国条約…日本の最善手は? 本当のことがわかる昭和史《2》軍縮ブームとエネルギー革命の時代「明治の精神」の死(13)なぜ「九カ国条約」を見直さなかったか -
14 ABCD包囲陣は不戦条約違反ではないのか 本当のことがわかる昭和史《2》軍縮ブームとエネルギー革命の時代「明治の精神」の死(14)いわゆる「不戦条約」の偽善 -
15 近代化が進む中、明治天皇が心配されたのは進化論だった 本当のことがわかる昭和史《2》軍縮ブームとエネルギー革命の時代「明治の精神」の死(15)当時の指導者の不見識は何に起因するのか -
16 教育勅語で徹底すべく起草されたものとは? 本当のことがわかる昭和史《2》軍縮ブームとエネルギー革命の時代「明治の精神」の死(16)悲劇の時代を率いた「教育勅語を知らない世代」 -
17 日露戦争までとまるで違う? 日本軍を驚かせた戦争の近代化 本当のことがわかる昭和史《2》軍縮ブームとエネルギー革命の時代「明治の精神」の死(17)四個師団廃止と軍の近代化を進めた日本 -
18 日露戦争までの将校の質が百点なら、シナ事変では50点 本当のことがわかる昭和史《2》軍縮ブームとエネルギー革命の時代「明治の精神」の死(18)宇垣軍縮を理解できなかった将軍たち -
19 第一次大戦の教訓として本気で取り組むべきだった問題 本当のことがわかる昭和史《2》軍縮ブームとエネルギー革命の時代「明治の精神」の死(19)「石炭の煙」で日露戦争に勝ったが -
20 ある人物の不在から日米開戦という不幸は始まっていた!? 本当のことがわかる昭和史《2》軍縮ブームとエネルギー革命の時代「明治の精神」の死(20)満洲にアメリカの石油会社を招致すればよかった -
21 当時も現代も電力の鬼・松永安左エ門がいてくれたら 本当のことがわかる昭和史《2》軍縮ブームとエネルギー革命の時代「明治の精神」の死(21)資源問題の軽視は、あまりに愚
関連講義
-
エリート、理念重視、自民党近代化…福田赳夫を深掘りする 福田赳夫と日本の戦後政治(9)ぶれない政治家と自民党での役割 -
「福田ドクトリン」と全方位平和外交…福田赳夫の真実とは 福田赳夫と日本の戦後政治(8)福田政権「3つの功績」 -
『街道をゆく』で旅を続ける司馬遼太郎の夢 司馬遼太郎のビジョン~日本の姿とは?(6)ウラル・アルタイ語族と司馬史観 -
なぜ「三角大福」の抗争で福田の行動がわかりづらいか 福田赳夫と日本の戦後政治(7)田中政権から三木政権へ -
徳川家康ではなく織田信長…司馬文学が描く「別の可能性」 司馬遼太郎のビジョン~日本の姿とは?(5)移動と破壊と自由の実現 -
角福戦争…派閥解消にこだわる福田vs金権政治の田中角栄 福田赳夫と日本の戦後政治(6)角福戦争と福田赳夫の敗北 -
『ペルシャの幻術師』が出世作の司馬遼太郎、実は日本嫌い 司馬遼太郎のビジョン~日本の姿とは?(4)日本嫌いと大陸ロマン -
派閥解体をめざす党風刷新運動の挫折…不遇から大蔵大臣へ 福田赳夫と日本の戦後政治(5)党風刷新運動の失敗と佐藤栄作政権 -
司馬遷を意識…“司馬遼太郎”の由来と海音寺潮五郎との縁 司馬遼太郎のビジョン~日本の姿とは?(3)司馬遼太郎ワールドと司馬遷 -
2つの所得倍増計画…経済計画の福田とスローガンの池田 福田赳夫と日本の戦後政治(4)「所得倍増計画」の2つの系譜
類似講義(自動検索)
-
朝鮮使節派遣問題に端を発した明治六年政変 明治維新から学ぶもの~改革への道(15)明治六年政変 -
木を伐ってもいいの? 森林保護の基本を知ろう! 森と都市の共生~木材活用の豊かな社会(1)山の森林と都市の森林 -
孝明天皇の条約拒絶と井伊直弼による幕政の主導 幕末・維新史を学ぶ~英傑たちの決断(2)孝明天皇と井伊直弼 -
知られざる皇道派の思想…その“密教”と“顕教”とは 戦前日本の『未完のファシズム』と現代(6)皇道派と統制派の対立 -
古来より歴史書に人物や事実を記録する基準はとても難しい 『歴史とは何か』を語る(8)智者と愚者の混淆 -
トランプ政権が外交政策で錯綜している理由 激変しつつある世界―その地政学的分析(2)トランプ外交 -
1942年に米潜水艦の魚雷で沈没した大洋丸の数奇な運命 戦時徴用船の悲劇と大洋丸捜索(2)大洋丸の数奇な運命 -
アラスカでの米中外交協議、激しい応酬とそれぞれの思惑 2021年米中関係と日本外交の針路を読む(2)米中外交協議と日本の国益 -
北条政子も愛読した長期政権のバイブル『貞観政要』 『貞観政要』を読む(1)長期政権を目指す者の必読書 -
なぜ後鳥羽上皇は北条義時と鎌倉幕府に不満を募らせたか 源氏将軍断絶と承久の乱(10)後鳥羽上皇との対立の火種
関連特集