10MTVオピニオン|有識者による1話10分のオンライン講義
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光緒帝の皇后とその前で跪いた太った老人が泣いていた

20世紀前半の日中関係~この歴史から何を学ぶか(2)

島田晴雄
公立大学法人首都大学東京 理事長
情報・テキスト
袁世凱、中華民国臨時大総統就任(1912年3月10日)
本年2015年は戦後70年の節目の年。しかし、中国や韓国ではいまだに反日教育が行われ、日本においても特に現代史の教育の欠如は否めない。歴史認識という価値観以前に、事実理解のギャップに問題があると感じた島田晴雄氏が、このギャップを埋めるべく、20冊以上の文献に目を通してまとめ上げた20世紀前半の日中関係に関する大作講義。(2015年7月7日開催島田塾第126回勉強会島田晴雄会長講演「20世紀前半の日中関係:この歴史から何を学ぶか」より、全3話中第2話目)
時間:53:30
収録日:2015/07/07
追加日:2015/08/06
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≪全文≫
Ⅳ(第3幕)満蒙権益と清帝国の終焉
1 満州権益から満蒙権益へ
―日本が満州においてロシアから継承した権益の中心は、旅順・大連の租借権(1923年まで)、と東清鉄道南部支線(長春←→旅順・大連)の経営権

 旅順・大連は1906年8月、これを「関東州」と名付け、関東都督を設置。11月には、南満州鉄道(満鉄)を設立、鉄道以外にも多くの事業。その総裁に後藤新平を任命

―アメリカは門戸開放を謳って当初、日本に好意的。しかし日本の対応はそれほど開放的ではなく、アメリカは次第に日本の満州政策は門戸開放原則に反するとの見方強まる

―それを最も歓迎したのが清国。奉天・巡撫総督 唐紹儀は、アメリカの鉄道資本などの導入によって日本による満州の勢力圏化を阻止しようとした

―一方、アメリカ本土では1906年より日本人移民排斥問題が顕在化しており、T.ルーズベルト大統領は日本の膨張のはけ口として日本の満州政策を黙認する態度。ところが、1909年3月に就任したタフト大統領は国務省の極東政策すなわちアメリカ資本によって満鉄と並行して満州を南北に走る鉄道を建設して満鉄の独占利益を破ることを門戸開放の方法として主張。

―このアメリカの計画はロシアの満州権益を脅かすとしてロシアの反撥招く。ここに日露両国は共同してアメリカのドル外交に対抗。進んで1910年7月第二次日露協約で満州における両国の権益を相互に保障し合う約束

―やがてその領域は拡大。アメリカの性急かつやや拙劣な外交により、日本はやがて南満州全域、さらに東部内蒙古までを日本は勢力圏と見なすようになり、「満蒙権益」が叫ばれるようになった


2 辛亥革命と中華民国樹立

―一方、中国では、1908年11月14、15日。紫禁城では西太后と光緒帝が相次いで逝去。光緒帝の甥で、数え3歳の溥儀(宣統帝)が即位
―孫文は、1895年10月に広州で最初の武装蜂起、1900年10月恵州、1911年の黄花崗まで、のべ11回蜂起していずれも失敗。その孫文が辛亥革命で清帝国崩壊の引き金を弾いた
 その孫文について紹介

―辛亥革命で清朝を倒し、中華民国を樹立。「中国革命の父」、中華民国のみならず、大陸でも最近は「国父」と呼ばれる。中国では孫文より孫中山と呼ばれる

―清国広東省香山県翠享村(現中山市)の農家に、1866年11月12日、生まれる。ハワイに居た兄、孫眉を頼って1878年オアフ島ホノルルに移住。プナホウ・ハイスクールに通ううち西洋思想、キリスト教に目覚めるが、1883年呼び戻され、帰国後、香港西医書院で医学を学びマカオで医師として開業するが、革命思想を抱くようになった

―1894年1月、ハワイで興中会を組織。1895年、日清戦後に広州で武装蜂起を企てたが、密告で頓挫、日本に亡命。1897年、宮崎滔天(アジア主義者、浪曲師、大陸浪人)の紹介で、頭山満(国家主義者、右翼の巨頭、日本・アジアの政治家、革命家と広い交遊)と出会い、頭山を通じて平岡浩太郎から生活費、活動費の援助を得た。また早稲田鶴巻町の2000㎡の屋敷は犬養毅が斡旋

―1899年、義和団の乱。翌年、孫文は恵州で再度挙兵するが失敗。1902年、中国に妻がいたにも拘らず、日本人の大月薫と駆け落ちに近い形で結婚。また浅田春という女性を愛人にし、つねに同伴していた

―のちにアメリカを経てイギリスに渡り、一時、清国公使間に拘留され、その体験を『倫敦被難記』として発表。世界的に革命家と...
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