≪全文≫
海軍のほうから見ていこう。
さすがに草創期は「薩の海軍」といわれただけあって、明治時代に海軍大将になった人は、皇族は別として、14人中13人が薩摩出身だった。当時はいわゆる薩閥が幅を利かせていて、明治時代に薩摩出身者以外で唯一海軍大将になったのが、会津出身の出羽重遠である。海軍中将も72人のうち29人、すなわち約40%が薩摩の出身者だった。
とくに権力を振るったのは、「薩の海軍」の頭領といわれた山本権兵衛である。
山本権兵衛は主に陸にいて、海軍軍政の中心として活躍したあと、海軍大臣も歴任し、日露戦争に間に合うように海軍をつくりあげた。海の上でも東郷平八郎という薩摩出身の大英雄が出たから、当時の海軍は薩摩閥の全盛時代だったといってもおかしくはなかった。
ところが日露戦争の日本海海戦で日本海軍がロシアのバルチック艦隊を破って以来、海軍の人気がさらに高まった。海軍兵学校の生徒になれば、当時の青年たちの憧れだった短剣を吊ることができ、兵学校を卒業して海軍士官候補生になると、練習艦に乗って遠洋航海に出て、ヨーロッパにも行くことができた。そのため、海軍兵学校の入学試験が非常に難しくなった。
そうなると、兵学校生徒たちは薩摩出身者だけでもなくなっていく。当時は日本男子の1割しか旧制中学に行けなかった時代だったが、その旧制中学で1番から3番以内に入っているような人でなければ、海軍兵学校には絶対に受からないような状況であったことは、第一章で述べた通りだ。
もう一つ重要なのは、薩摩の人たちには、派閥意識がそれほどなかったということだ。たとえば薩摩閥の中心人物だった大久保利通は、自分の後継者に長州出身の伊藤博文を選んでいる。また、西郷隆盛がいくら人気のある人物だったからといって、彼の従弟の大山巌のように、晩年、西郷が薩摩に帰郷したとき、行動をともにしなかった人も少なからずいた。
してみると、たまたま薩摩藩と長州藩の出身者が中心になって明治維新を起こしたものの、薩摩の人たちは元来、それほど閥にこだわらないところがあったのではないかと思われる。
日本海海戦で第一艦隊兼連合艦隊参謀長を務めた島村速雄大佐(のち大将、没後元帥)は高知県出身である。日本海海戦に先立ちロシアのバルチック艦隊の行動がわからなくなったとき、連合艦隊司令部の中で「艦隊を津軽海峡に向けよう」という声が上がったが、「そんなことをしてはいけません。絶対ここに来ます」と、鎮海湾で待機することを進言したのが島村大佐だった。連合艦隊司令長官の東郷平八郎大将がその意見を採用した結果、日本は対馬海峡でバルチック艦隊を破ることができた。
その結果、彼は「あの島村はなかなか偉いやつだ」と認められ、のちに海軍軍令部長になっている。
島村大佐の跡を継ぎ、東郷司令長官麾下の第一艦隊兼連合艦隊参謀長になったのが加藤友三郎少将(のち元帥)で、この人も広島出身で薩摩閥ではなかった。加藤参謀長は日清戦争の発端となった豊島沖海戦で、巡洋艦吉野の砲術長として活躍している。宣戦布告前であるにもかかわらず、清国の軍艦が明らかにこちらを撃とうとしていたため、「撃たれる前に撃て」と指示して砲撃を行ない、同海戦に勝った。
加藤参謀長は、誰も彼の悪口をいう人がいないといわれるほど、軍人としても、のちに政治家としても常識的かつバランス感覚に長けた人物として知られ、大正4年(1915)8月10日に第二次大隈重信内閣(大正3年〈1914〉4月16日~5年〈1916〉10月9日)に海軍大臣として入閣して以来、寺内正毅内閣(大正5年〈1916〉10月9日~7年〈1918〉9月29日)、原敬内閣(大正7年〈1918〉9月29日~10年〈1921〉11月13日)、高橋是清内閣(大正10年〈1921〉11月13日~11年〈1922〉6月12日)で海軍大臣を務めた。そして自身の加藤友三郎内閣(大正11年〈1922〉6月12日~12年〈1923〉9月2日)でも海軍大臣を兼務している(大正12年5月15日より財部彪大将が海相に就任)。ワシントン会議(大正10年〈1921〉)にも首席全権として参加し、平和を求める当時の世論の後押しを受けて、海軍軍縮条約に調印している。
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情報・テキスト
島村速雄
近代日本人の肖像
明治時代に海軍大将になった人は、皇族は別として14人中13人が薩摩出身、海軍中将も72人のうち29人が薩摩の出身者で、当時の海軍は「薩の海軍」といわれるほど薩摩閥の全盛時代だった。しかし、薩摩の人たちには、派閥意識がそれほどなかったという。上智大学名誉教授・渡部昇一氏によるシリーズ「本当のことがわかる昭和史」第三章・第10話。
時間:06:06
収録日:2014/12/22
追加日:2015/08/27
収録日:2014/12/22
追加日:2015/08/27
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