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真崎甚三郎更迭など皇道派追放への反発かつ二・二六の契機

第四章 二・二六事件と国民大衆雑誌『キング』(5)永田鉄山斬殺事件

渡部昇一
上智大学名誉教授
情報・テキスト
相沢三郎
Wikimedia Commons
皇道派プロパガンダに刺激された相沢三郎中佐が永田軍務局長を暗殺した、永田鉄山斬殺事件。二・二六事件の半年前の出来事だった。上智大学名誉教授・渡部昇一氏によるシリーズ「本当のことがわかる昭和史」第四章・第5回。
時間:05:23
収録日:2015/01/19
追加日:2015/08/31
≪全文≫
 この間、昭和9年(1934)7月8日に岡田啓介内閣(~11年〈1936〉3月9日)が成立していたが、海軍出身でロンドン条約賛成派の岡田首相は、斎藤実内閣に続いて挙国一致内閣を掲げ、「陸軍は事件ばかり起こしている。もう少し慎んでもらわなければならない」と自重を求めた。そこで、陸軍大臣になった林大将は命がけで真崎大将を追い払おうとした。

 林陸相は参謀総長である閑院宮殿下の同意を得たうえで真崎大将を呼び、「君が派閥の中心になって軍の統制を乱している。この際、君も教育総監を辞めてくれないか」と切り出したが、真崎大将は断った。閑院宮殿下、林陸相、真崎大将が一堂に会した三長官会議の席で真崎大将は、「自分は教育総監という大元帥である天皇陛下に直属する役職にある。この人事を断行すれば何が起こるかわからない」と述べた。これに対して閑院宮殿下は、「このままでいけば何か起きるかもしれないが、そのときには陸軍大臣が処置をするだろう」と答えている。それでもなお真崎大将は、辞任を納得しなかった。

 そこで林陸相は葉山の御用邸に赴き、天皇陛下に裁可を求めたところ、真崎大将を教育総監から更迭し軍参議官にすること、後任の教育総監を渡辺錠太郎大将にすることが認められた。かくして、昭和10年(1935)7月に、真崎は教育総監を罷免されることとなった。この処置については当時の世論も好意的で、林大臣は将来の首相の器だともてはやされている。

 だが、真崎大将は陸軍の最高人事は三長官で決めるという規則があるのに、自分の意見を無視したのは統帥紊乱だと、大いに不満をぶちまけていた。真崎大将を取り巻いていた青年将校たちも、真崎大将の解任は理不尽であり、「真崎将軍こそは西郷隆盛の再来である」と持ち上げた。

 そんな中で、永田鉄山軍務局長が、白昼の陸軍省軍務局長室で暗殺される事件が起きるのである。先ほど紹介したような皇道派側のプロパガンダに刺激された相沢三郎中佐が、広島・福山の歩兵第四十一連隊から台湾の歩兵第一連隊に転任するための挨拶回りと称して上京し、軍務局長室で永田少将を斬殺したのだ。

 この永田鉄山斬殺事件が起きたのが昭和10年(1935)8月12日で、二・二六事件が発生したのが、その約半年後の昭和11年2月26日である。二・二六事件では渡辺錠太郎大将が教育総監部で殺されているが、クーデターを起こした青年将校たちにとっては、真崎大将の後任の教育総監であるというだけで、殺す理由は十分だったのだろう。
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