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当時の国際社会では当たり前のことを日本はしなかった

本当のことがわかる昭和史《5》満洲事変と石原莞爾の蹉跌(5)満洲事変への批判を招いた幣原外相の罪

渡部昇一
上智大学名誉教授
情報・テキスト
南京城内で避難民にまぎれて逃亡を企てた中国軍正規兵を調べる憲兵
(毎日新聞昭和13年1月1日発行)
Wikimedia Commons
南京事件からの教訓を、幣原外相は生かそうとしなかった。満洲事変に至る過程をきちんと説明して、理解を求めれば、日本に批判が集まることはなかっただろう。だが、幣原外相は不拡大を唱えるばかりだった。それに対して、幣原外交にもはや聞く耳を持たない関東軍は粛々と行動したから、日本は「ダブルガバメント」だと批判され、受けなくてもよい不信の目を向けられることになった。上智大学名誉教授・渡部昇一氏によるシリーズ「本当のことがわかる昭和史」第五章・第5回。
時間:02:08
収録日:2015/02/02
追加日:2015/09/07
≪全文≫
 満洲事変(昭和6年〈1931〉9月18日)が勃発すると、詳しい経緯は他書に譲るが、満洲駐屯中の第二師団を中心とする約1万の兵力が、約27万の正規軍からなる張学良軍を追い払い、満洲を押さえた。

 陸軍中央には当初、政府の不拡大方針に従おうとする動きもあったが、結局は満洲の占領および満洲国の建設に着手した。幣原外相は満洲事変に対して徹底的に反対したが、政府も結局は満洲事変を追認し、満洲国の建国を後押しするようになる。

 そういう態度が日本政府に対する信用を大きく低下させた。

 そもそも、現地の居留民を守るために軍隊が出動するというのは、現在はもちろん当時の国際社会ではごくごく当たり前のことであった。義和団が居留民を襲った北清事変では、イギリス、アメリカ、ロシア、フランス、ドイツ、オーストリア、イタリア、日本の八カ国が連合軍を出動させているし、蔣介石率いる国民革命軍(北伐軍)が南京で居留民を襲撃殺害した南京事件(昭和2年〈1927〉3月)の折には、英米が軍艦から艦砲射撃を行ない、陸戦隊を上陸させている。

 実はこの南京事件の折、日本人も殺害され、英米からともに行動するように声を掛けられているのだが、対支協調を謳う幣原外相はそれに応じなかった。それどころか、警備していた日本軍人は反撃を禁じられたため、婦女子を含む日本人が暴行、凌辱、略奪されるのをただ見ているしかなかった。結局、このことで、シナは日本を侮るようになり、さらに日本人に対する暴行事件が増えたばかりでなく、英米からも「日本だけがいい顔をしようとしている」と不信を招くようになったのだ。

 その教訓を、幣原外相はまったく生かそうとしなかった。満洲事変に至る過程をきちんと説明して、理解を求めれば、日本に批判が集まることはなかっただろう。だが、幣原外相は不拡大を唱えるばかり。それに対して、幣原外交にもはや聞く耳を持たない関東軍は粛々と行動したから、日本は「ダブルガバメント」だと批判され、受けなくてもよい不信の目を向けられることになったのである。

 さらにいえば、関東軍は満洲を攻め取って領有したのではなく、最後の清皇帝・溥儀を迎えて満洲国を建国している。もともと満洲は満洲族の故地であり、これは当時の国際常識からいっても穏健な手法であったといえる。

 清朝復興を心から望んでいた最後の皇帝・溥儀が満洲に入ると、それまで自分が満洲の支配者だと自称していた人物たちがみな恭順し、溥儀の配下についた。昭和7年(1932)に満洲国が成立したが、国務総理になった張景恵は、それまで自分が満洲皇帝だといっていた人物の一人である。溥儀は昭和7年に満洲国執政となり、昭和9年(1934)に皇帝に就任したことを大変喜んでいた。

 この満洲国の成立までは、たしかに理由が立っている。満洲は本来満洲族のものであり、清朝の皇帝だった人物が満洲に戻ってきたのだからいいのではないか、というのはどこにでも通用する理屈だ。

 ところが日本は国際連盟で、どうもそこを強く主張した形跡がない。

 満洲事変の2年後の昭和8年(1933)にジュネーブで開催された国際連盟総会に松岡洋右が日本の首席全権として参加するが、満洲国が否認されたことから国際連盟を脱退することになる。
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