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「日本与しやすし」と勝手に条約違反させちゃ駄目でしょ

第五章 満洲事変と石原莞爾の蹉跌(3)幣原外交の致命的失敗

渡部昇一
上智大学名誉教授
情報・テキスト
幣原喜重郎
近代日本人の肖像
日本国民と日本政府は、ベルサイユ条約からワシントン条約までの平和路線、すなわち幣原喜重郎が進めてきた外交路線を好み、議会もそれを支持した。ところが実際には、諸外国からはその協調姿勢につけ込まれ、結果として失点ばかりを重ねてしまうことになった。上智大学名誉教授・渡部昇一氏によるシリーズ「本当のことがわかる昭和史」第五章・第3回。
時間:06:16
収録日:2015/02/02
追加日:2015/09/07
≪全文≫
 日本もただ手をこまねいていたのではない。大正2年(1913)には、当時の辛亥革命(第二革命)の状況を見て、日本の三大財閥の一角だった三井は、日本政府とも連携をしつつ、満洲を買収する交渉を行なっている。だがこれは、交渉相手の孫文が第二革命の失敗で日本に亡命したため、実現しなかった。

 その後、中華民国は軍閥割拠の状況になるが、孫文の死後、国民政府を掌握した蔣介石が「北伐」を行ない、国民党が根拠地としていた広州から南京、上海、北京へと攻め上って中国統一に成功すると(大正15年〈1926〉~昭和3年〈1928〉)、今度は国民政府の外交部長の王正廷が「革命外交」を唱え出す。「中国は革命に成功したのだから、これまで結んできた一切の不平等条約を廃止できる」とする外交方針であった。明治維新後も、不平等条約改正のためにまじめに努力を重ねてきた日本からすれば、まったくとんでもない話であった。

 このような状況下で日本の外務大臣を務めていたのが幣原喜重郎であった。幣原は大正10年(1921)から始まったワシントン会議で外務次官として全権を務めたあと、加藤高明内閣(大正13年〈1924〉6月~大正15年〈1926〉1月)で外相に初就任。以来、第二次若槻礼次郎内閣(昭和6年〈1931〉4月~12月)までの多くの期間、外務大臣を務めていた。

 幣原外交は、先にも述べたように、ひたすら協調外交であった。もちろん、そのような外交を支えたものとして、ヨーロッパ大戦後に平和謳歌が国民全体の気分になっていたことや、「日本が世界の五大国の一つになった」という喜びがあったことは確かである。そういう世論の支持のもとに政党政治があり、幣原外交もあった。

 ところが、大正11年(1922)に成立したソ連が、国境を越えて国際共産主義運動を展開し始める。また日本人は当初、ワシントン条約(大正10年〈1921〉)やロンドン海軍軍縮条約(昭和5年〈1930〉)について、軍備を縮小し平和の理念を実現するのは良いことだと歓迎していたが、実はそれはアメリカが平和の名のもとに日本を抑えつけるための方便だったということが、だんだんと明らかになってきた。そういう中で、幣原外交に対する不信が広がっていったのである。

 結局のところ、協調とは聞こえがいいが、その実態は日英同盟の廃止をはじめ、問題だらけの外交でしかなかった。幣原が全権を務めたワシントン会議で、シナの領土保全および門戸開放、機会均等などを定めた九カ国条約が結ばれているが(アメリカ、イギリス、日本、フランス、イタリア、中華民国、ベルギー、オランダ、ポルトガル)、ソ連の脅威がどんどん増していく中で、ソ連抜きのシナ関連条約など、とても実効力があるものではなかった。

 さらに、もっと大事なことは、九カ国条約ではシナに対しても兵力縮小が要望されたのだが、シナは軍備を縮小するどころか、近代的武器を装備した大規模な常備軍を持つようになったことである。これは、隣国である日本としては放っておくわけにはいかない条約違反だ。しかし幣原外交には、これを止める力がなかった。

 満洲において排日運動やサボタージュなどが起きて大きな被害を被っても、満洲における日本の権益拡大に反対していたアメリカなどとの関係を悪化させないようにとの思いで、遠慮してばかり。しなくてもいい妥協を重ねるので、それを見たシナでは「日本与しやすし」と、さらに排日運動が激化するという悪循環に陥ってしまう。有効な手を何ら打たない日本政府に対する国民の不満が高まっていた。

 米英との関係が良好であれば、幣原の話にも聞くべきものはあったかもしれない。だが、繰り返すが当時の米英、とくにアメリカは日本を抑え込もうという意図を明白に持っており、幣原は米英協調外交を進めながらも、日本人に対する人種差別を背景にした排日移民法などの成立を止めることができなかった。

 いうまでもないことだが、日本国民と日本政府は、ベルサイユ条約からワシントン条約までの平和路線、すなわち幣原の外交路線が好きだった。議会もそれを支持した。ところが実際には、その協調姿勢につけ込まれ、失点ばかりを重ねてしまったのである。

 ワシントン会議の際、日本がベルサイユ条約で権益を得た山東半島などの旧ドイツ領を、アメリカの一方的な圧力で返還しなければならなくなったことなどは、まさに象徴的である。ワシントン会議の幣原全権がアメリカの圧力に屈した姿は、その後の幣原外交の路線を彷彿とさせるものがあった。

 当然、幣原外相に対して、「日本移民の禁止も止められないのに、なぜアメリカのいうことばかり聞くのか」という批判の声が上がるようになってくる。実際、この頃からアメリカは明らかに、シナで意識的に排日運動を起こさせている...
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