テンミニッツTV|有識者による1話10分のオンライン講義
ログイン 会員登録 テンミニッツTVとは
社会人向け教養サービス 『テンミニッツTV』 が、巷の様々な豆知識や真実を無料でお届けしているコラムコーナーです。
DATE/ 2022.04.27

『ホモ・エコノミクス』で思考する現代の「利己的人間」像

 「ホモ・エコノミクス」という言葉を皆さんはご存じでしょうか。ホモ・エコノミクスとは、「合理的経済人」と呼ばれ、広くは「自分の経済的・金銭的な利益や利得を第一に考えて行動する人」を意味します。

 明治大学政治経済学部教授(専門は現代思想・政治思想史)である重田園江先生は、ホモ・エコノミクスを「行動のいちいちに経済的な無駄を省き、できるだけ儲かるように合理的計算に基づいて意志決定する主体」といいかえ、ホモ・エコノミクスという人間像は「政治学にまで越境し、学術だけでなく現実の政治・政策にまで大きな影響を与えている」と説きます。

 そのうえで、ホモ・エコノミクスについて「日本では数少ない政治経済学部に属する研究者として、一度は考えるべき」という思いから、重田先生は『ホモ・エコノミクス─「利己的人間」の思想史』を上梓されました。

思想史でたどるホモ・エコノミクス

 本書の第一部「富と徳」では、“ホモ・エコノミクス前史”ともいえる、18世紀ヨーロッパでの富と徳をめぐる論争を、金儲け・道徳・欲望・支配・文化といった観点から読み解いています。

 続く第二部「ホモ・エコノミクスの経済学」では、ホモ・エコノミクスを経済論の中に組み込んだ一つの画期として、限界革命を担った三人の経済学者メンガー・ジェヴォンズ・ワルラスを取り上げています。そこでは、経済学の科学化・理論化・一般化を目標とし、市場における取引を経済学にふさわしい「モデル」として数学や物理学を利用した点を挙げながら、ホモ・エコノミクスの勃興期ともいえる19世紀の多様な思想を列挙しています。

 さらに第三部「ホモ・エコノミクスの席捲」では、差別、犯罪、労働(人的資本)、農業そして政治など、多岐にわたるホモ・エコノミクスの拡張使用例を取り上げ、現代へと続くホモ・エコノミクス像をあぶり出しています。

多様なモデルを「少しだけ分かる」感覚

 さて本書では、自己利益の主体=ホモ・エコノミクスが標準的人間像であることが当たり前とされ、「自由市場の擁護かそれ以外か」という対立軸しかなくなっているような現代から、過去を振り返る試みがなされています。

 そのため、今日的課題であるホモ・エコノミクスを前史までさかのぼり、いまではメインストリームとは関係なくなったような歴史の埃の下に埋もれたへんてこりんな理論や主張を王道経済学史から引っ張り出している点が多々あります。実はその「へんてこりんな理論や主張」の引っ張り出しこそが、本書の大きな魅力となっています。

 しかしながら、その理論や主張は、初学者や場合によっては経済学や政治学に詳しい人にとっても分からない部分や納得できない部分も少なくないかもしれません。そこで、重田先生が物理数学の経済学への援用例として、自然科学を例に挙げて古典的経済学を批判したメンガー、経済学を数学化したジェヴォンズ、古典力学を経済学に援用したワルラス、さらには限界効用の数式よる表現が「限界効用逓減の法則に基づく経済理論」からさらに生産・分配の理論へと発展しやがて現代の理論経済学の基礎となったことなどを、「なんだかわけが分からない」と戸惑いながらも「ただ分からないのではなく、少しだけ分かる」と述べているように、新書という形態で通読することによって、多くの読者には最低でも「少しだけ分かる」という読後感をもたらす配慮が、本書には施されているのです。

これから多くの価値観にますます必要となる自明でもなく普遍でもない見方

 「ホモ・エコノミクスが仮構され単純化された人間像にすぎないとするなら、人間とはいったいどんな存在なのだろう」「私たちはいま、人間が追い求めてきた富と豊かさ、そしてそれを追求する自己利益の主体=ホモ・エコノミクスが、根本的にあやまった価値観と結びついているのではないかと問いかけねばならないほど追いつめられている」と重田先生は説きます。

 ホモ・エコノミクスは、世界の見方を変え、社会を理解する文法を変えてきました。しかし、ホモ・エコノミクス的な価値観、つまりは「行動のいちいちに経済的な無駄を省き、できるだけ儲かるように合理的計算に基づいて意志決定する主体」は人間の一面にしかすぎず、自明でもなければ普遍的でもありません。

 激しい社会変化によって人間の思想も大きく変動してきた現代、そして過去とはちがった特殊な変化がおこると予感される近未来にとって、ホモ・エコノミクスもですがそれ以外の多くの価値観も、これからますます自明でもなく普遍でもない見方が必要になってくることが予想されます。

 ということで本書は、思想を固定することを警鐘しながら、多様なモデルについて「少しだけ分かる」感覚を一人ひとりが積み重ねて思考することの大切さと、その感覚を楽しむことの意味を教えてくれる貴重な一冊です。

<参考文献>
『ホモ・エコノミクス─「利己的人間」の思想史』(重田園江著、ちくま新書)
https://www.chikumashobo.co.jp/product/9784480074645/

<参考サイト>
重田園江先生のゼミナールのホームページ
http://www.isc.meiji.ac.jp/~shisou/
~最後までコラムを読んでくれた方へ~
自分を豊かにする“教養の自己投資”始めてみませんか?
明日すぐには使えないかもしれないけど、10年後も役に立つ“大人の教養”を 5,100本以上。 『テンミニッツTV』 で人気の教養講義をご紹介します。
1

権威主義とポピュリズムへの対抗…歴史を学び、連帯しよう

権威主義とポピュリズムへの対抗…歴史を学び、連帯しよう

民主主義の本質(5)民主主義を守り育てるために

ポピュリズムや権威主義的な国家の脅威が迫る現在の国際社会。それに対抗し、民主主義的な社会を堅持するために、国際社会の中で日本はどのように振る舞うべきか。議論を進める前提として大事なのは「歴史から学ぶ」ことである...
収録日:2024/02/05
追加日:2024/04/23
橋爪大三郎
社会学者
2

ルネサンスはどうやって始まった?…美術の時代背景

ルネサンスはどうやって始まった?…美術の時代背景

ルネサンス美術の見方(1)ルネサンス美術とは何か

ルネサンス美術とはいったい何なのか。これを考えるためには、なぜその時代に古代ギリシャ、ローマの文化が復活しなければならなかったのかを考える必要がある。その鍵は、ルネサンス以前のイタリアの分裂した都市国家の状態や...
収録日:2019/09/06
追加日:2019/10/31
池上英洋
東京造形大学教授
3

OpenAI創業者サム・アルトマンとはいかなる人物なのか

OpenAI創業者サム・アルトマンとはいかなる人物なのか

サム・アルトマンの成功哲学とOpenAI秘話(1)ChatGPT生みの親の半生

ChatGPTを生みだしたOpenAI創業者のサム・アルトマン。AIの進化・発展によって急速に変化している世界の情報環境だが、今その中心にいる人物といっていいだろう。今回のシリーズでは、サム・アルトマンの才能や彼をとりまくアメ...
収録日:2024/03/13
追加日:2024/04/19
桑原晃弥
経済・経営ジャーナリスト
4

新宿の歴史…かつては馬糞臭い宿場町だった「内藤新宿」

新宿の歴史…かつては馬糞臭い宿場町だった「内藤新宿」

『江戸名所図会』で歩く東京~内藤新宿(1)内藤新宿の誕生と役割

江戸時代後期に書かれた地誌『江戸名所図会』(えどめいしょずえ)をひもとくと、江戸時代の街の様子や人々の暮らしぶりが見えてくる。今回は、五街道の宿場町として重要な役割を果たした「内藤新宿」を取り上げ、新宿のかつて...
収録日:2024/02/19
追加日:2024/04/21
堀口茉純
歴史作家
5

「和歌」と「宣命」でたどる奈良時代の日本語とその変遷

「和歌」と「宣命」でたどる奈良時代の日本語とその変遷

文明語としての日本語の登場(1)古代日本語の復元

日本語の発音は、漢字到来以来一千年の歴史を通してどう変わってきたのか。また、なぜ日本語は「文明語」として世界に名だたる存在といえるのか。二つの疑問を解き明かす日本語学者として釘貫亨氏をお招きした。1回目は古代日本...
収録日:2023/12/01
追加日:2024/03/08
釘貫亨
名古屋大学名誉教授