●過去の道徳思想を調査、分析する
では、第2章に移ります。前回、現状を分析して問題点が分かりましたので、次に、科学の通法ですけれども、過去の人はどうなっていたのか、過去の文献はどうなっていたかということを調べます。そうしないと、同じことを2回してしまうことになり、すでに回答が出ているかもしれませんので、そこを見てみました。
過去の道徳思想はどうなっているか。倫理の授業を思い出してください。疑問1(誰が、なぜ、殺人はいけないと決めるのか?)、2(なぜ戦争や死刑では殺人が許容されるのですか?)に対する回答は道徳に対するスタンスになるのですが、大きく2つに割れていました。このことを利用すると、過去の思想もかなりきれいに分類できます。ここの部分は、あくまで道徳(善悪の区別)に関する視点からの分類であって、その人たちの哲学全体に対する話ではないことをご注意ください。また、この論考の目的は思想史ではありませんので、高校の教科書に載っているような代表的思想のみ取り上げます。
●社会に重点を置く道徳モデルー宗教、伝統、習慣
そういたしますと、先ほどの疑問1、2に対する回答から分かってきたように、1つ目のモデルとしては社会に重点を置く道徳モデルが考えられます。このモデルの内容を1つのステートメントで表すとこうなります。「理想の社会があり、そこで決まった理想の道徳がある」という考えです。スライドでは『東大理系教授が考える 道徳のメカニズム』(ベストセラーズ)のページ数を示してありますので、もし詳細をお知りになりたい方はそちらをご覧ください。
この典型例は宗教です。全ての宗教はある理想形があって、その中で決まった理想の道徳があるということを、キリスト教、イスラム教、仏教、皆はっきり言っています。
●問答無用で、特定の社会を神格化する
これとよく呼応して、伝統や習慣に基づく社会でもこういうことがあります。例えば孔子の教えです。周王朝の初期を理想化して、そこに返りなさい、というようなことを説いています。アリストテレスの場合には、彼が生まれ育ったギリシャのポリスの理想的な状態に戻りたい、と言っています。会津の「什(じゅう)」は昔、はやりました。これは「ならぬことはしてはならない」ということを言っていますが、その「ならぬこと」とは伝統や習慣で決まっていることなのです。
これはどういうことかとざっくり言うと、つかみどころのない現実に、考えたり行動するための特定の枠組みを与えてくれるという、非常に便利なものです。ところが、これは問答無用なのです。そのまま受け入れることが重要で、問答無用、すなわち疑問を呈してはいけないというものです。子どもに教えるには便利ですし、小さい子どもには、これで全然構わないと私は思います。
ですが、先ほど言った通り、絶対に疑問を差し挟むことを許しません。信仰とはまさにそういうものです。ある枠組みをもらったときに、それをそのまま丸ごと飲み込むことが信仰そのものですから、それで良いわけですが、よく考えてみると、これは特定の社会を神格化することになります。これは語弊があるかもしれないのですが、思い切り単純化させていった場合、右翼的思想の方を見ていると分かります。「こういう素晴らしい社会があって、みんなそこにコミットすべきである。問答無用である」、そういう考え方になります。
●個人に重点を置くモデルーデカルト以前
これに対立するもう一つの考え方があります。個人に重点を置く道徳モデルです。これはデカルト以前と以降で結構様相が異なりますので、2つに分けさせていただきます。まずはデカルト以前です。その内容を一言で表すと「道徳は個人個人が決めるもの」で、直接比較はできない、ということになります。
例を挙げますと、韓非子やマキアヴェッリが非常に典型的です。私は子どもの頃から韓非子が好きで読んでいるのですが、そこでは「人間は非常に利己的な存在で、この世の中は利己的な人間が戦う戦場である。その中で、その行為自体がいいとか悪いとか言うことはできない。そうではなく、自分が生き残るために有効か有効でないか、ということが大事だ」と言っています。マキアヴェッリは驚くほど韓非子に似ていると思います。マキアヴェッリは、何かもっと複雑なことを言っている、という人がいると思うのですが、それは全くの間違いで、基本思想は韓非子とほぼ同じだと思います。人間は利己的な存在で、この世はそういう利己的な人間たちがだまし合い、征服し合う戦場である、という考えであることはまず間違いありません。そういう考えなので、行為自体がいいとか悪いとか、そういうことは言えない、と本人もはっきり言っています。
それから、ソフィストやエピキュリア派、ストア派で...