●アントニウスとオクタウィアヌスの対立
カエサルの部下たちの筆頭はアントニウスという人物です。アントニウスは自分がカエサルの第一の部下だったので、カエサルが亡くなった時には自分がカエサル派を率いてリーダーになると思っていました。しかし、意外やカエサルの遺言状には、後継者を自分の姉の孫(姪の息子)に当たるオクタウィアヌス(のちのアウグストゥス)に任命する、とありました。
しかし、実質的にはアントニウスの勢力、あるいはアントニウスを支持する人たちもたくさんいましたので、アントニウス派とカエサルの後継者になったオクタウィアヌスとの対立が、大きくなっていきます。そうして、カエサルが死んだ紀元前44年から、紀元前の31年までの13年にわたって両者の対立が続いたのです。
アントニウスは、皆さんもご承知のように(後述しますが)エジプトのクレオパトラと結んで、やがてローマ世界の東半分を自身の勢力下に置きました。そして、イタリアを含む西の方を、オクタウィアヌス派が勢力下に置いて、両者は対立します。
●対立、調停、そしてエジプトと結んだアントニウス
両者とも、本来ならば対立すべきものではなく、お互いにいわばカエサル派として一緒になって行動しなければいけない、まとめていかなければいけないという意識が基本的にはあったわけです。しかし、実質的には両者の対立が激しくなっていきます。この対立の中では、いろいろな調停案が施されました。一番有名なのは、オクタウィアヌスからすれば自分の姉に当たるオクタウィアをアントニウスと結婚させたことです。
オクタウィアはアントニウスとの間に実際に子どもをもうけます。しかし、(そこに)もともとポンペイウスが頼り、カエサルが基盤を築いてきたエジプト(の存在が立ちはだかります)。エジプトは、その段階ですでに3000年近い伝統があり、その王家が持っている資産は莫大なものでした。ですから、そうしたエジプトと結び付くことは、ローマにとって非常に有利です。その時、アントニウスが東の方に勢力を持っていたので、結局エジプトと結び付いたのです。
そうした経緯の中で、カエサルもクレオパトラには非常に惹かれていたといわれており、シェイクスピアの劇にもあるわけですが、そのカエサルの第一の部下であったアントニウスもエジプトに行った時に、クレオパトラに惹かれていきました。
●語学の才と高い教養をもった美女・クレオパトラ
クレオパトラは「世界3大美女」などといわれますが、クレオパトラの実際の肖像は、後の時代に美化したものとして残っているのです。同時代のもので残っているものは、コインの中の横顔しかありません。これを見る限りは、そんなに「絶世の美女」といわれるほどの美女だったのか、と感じます。少なくとも私の好みではない顔をしていました。
クレオパトラは、語学が堪能で非常に教養のある人物でした。この当時は男尊女卑が当たり前で、女性はほとんど教育を受けていないという中、クレオパトラはエジプトの王家の娘ですから、高い教養と、ある意味語学の天才のようなところがあったのです。ですから、そういう点で、カエサルもアントニウスもクレオパトラに惹かれていったのだと思います。
●オクタウィアヌスの勝利
やがて、クレオパトラと結んだアントニウスは、オクタウィアヌスのお姉さんであるオクタウィアと離婚してしまいます。ということで事実上、両者の対立が決定的になったのです。そうして、最終的にアントニウス・クレオパトラ連合軍と、オクタウィアヌスの軍事上の片腕といわれているアグリッパ(最後までオクタウィアヌス、つまりアウグストゥスに忠実であった)率いる軍隊がアクティウム(今のギリシャとセルビアのちょうど国境あたりにある地域)の海戦で戦い、オクタウィアヌス・アグリッパの軍隊が勝利を収めました。そして、アントニウスとクレオパトラはエジプトに逃れていき、やがて自決に追い込まれていきました。
オクタウィアヌスのお姉さんであるオクタウィアは、グラックス兄弟のお母さんであるコルネリアと並び称されるほどの良妻賢母の代表的な人です。アントニウスとの間に生まれた自分の子どもを、離婚したとはいえども育てるのは当たり前だとして、アントニウスとクレオパトラの間に生まれた子どもすら引き取って育てたといわれているぐらい、非常に美徳を持った女性でした。
●大きな課題を克服して「尊厳なる者」へ
そういう状況の中で、結局オクタウィアヌスが単独の支配者になりました。ただその段階でも、やはりローマ社会には500年にわたる共和制国家の伝統がありますから、そういう目で見れば、まだ30歳近いオクタウィアヌスという若者が独裁者になるのではないかと、周囲の人たちはずっとその危険性を感じていた...