●大戦果を挙げた真珠湾攻撃
日本時間1941年12月8日午前1時、ハワイ時間では12月7日午前5時30分、黎明(れいめい)のことです。直前の偵察のため、巡洋艦「利根」と「筑摩」のカタパルト(航空機を射出するための機械)から零式水上偵察機が勢いよく発出されました。午前6時、南雲忠一中将率いる軌道艦隊の主力をなす航空母艦「赤城」「加賀」「蒼龍」「飛龍」「瑞鶴」「翔鶴」6隻の航空母艦は、艦首を風上に立てて全速で進みます。甲板上に並んだ戦闘機、爆撃機の発進を始めました。オアフ島北方230マイルのことです。15分後、戦闘機43機、爆撃機51機、攻撃機(魚雷)89機、計183機、上空で編隊集合、一路南へ飛び去っていきました。当時の日本軍にはこういう力があったのですね。
1時間15分後、第二次攻撃隊が発艦します。攻撃機など合わせて167機で、乗組員は九州の佐伯湾で連日、猛訓練をしていた人たちです。午前7時をまわり、「トラトラトラ」という暗号(意味は「我、奇襲に成功す」)を打電。ハワイでは、戦艦「アリゾナ」は炎上炸裂、「ウェストバージニア」は沈没、「オクラホマ」は転覆、「カリフォルニア」は3日後に沈没、他4隻は大破・中破、巡洋艦、駆逐艦、工作艦12隻は沈没、大破・中破となりました。航空母艦はとうとう捕捉できませんでしたが、日本軍の大戦果です。
●南方作戦の発令へ-まずマレー半島上陸作戦
もう一つ、知らなければいけないのは、南方作戦です。前回「ABCDライン(包囲網)」の話をしましたが、私が「逆ABCDライン」と呼ぶものが、実はあったのです。
1941年10月17日、開戦よりも随分前のことです。参謀本部は対英米蘭戦争における作戦見通しを起案します。攻撃の範囲と順序はまずフィリピン、マレーに対する先制攻撃を行う。作戦初頭、グアム、香港、英領ボルネオの要地を占領し、タイ国、インドシナを安定確保する。次いで、速やかに英領ボルネオ、セレベスの要地を占領。さらに進んで、ジャワ、スマトラの要地を攻略し、ビスマルク諸島、モルッカ諸島、ティモール島の要地を占領する。すごい案ですが、これが予定より少し遅れて発令されました。
まずマレー半島上陸作戦です。この時は、マレー半島に上陸して陸海軍の部隊がシンガポールまで南下したのですが、そのスタートとして41年12月7日深夜、第一次上陸部隊約5,500名を乗せた高速輸送船団3隻が、マレー半島の中部のコタバル海岸に接近し、投錨しました。工兵隊が50隻近い上陸用舟艇を荒れ狂う海の中に浮かべて、兵士が乗り込みます。途中で海に落ちた人もいるそうですが、激しい銃砲撃の中、第1回上陸に成功します。
12月8日、日本軍はコタバル市に侵入、占領しました。コタバルと同時にマレー半島の中部、タイ国領のシンゴラ(地図などで見ると、細くなっている部分のこと)、パタニにも上陸作戦を進め、一路南下します。兵力は約2万6,600名、戦闘員約1万7,000名です。ただ、これは兵力、火力ともに英軍より劣っています。山下奉文中将は猛スピードで突破作戦を命令しました。時に1日48キロ、兵も武器も、そして死体も踏み越えて、退却する英・インド混成軍の武器を押収しながらの直撃です。
●日本軍狂喜の大戦果-英極東艦隊撃滅
もう一つ、日本軍が狂喜した事件があります。英極東艦隊の撃滅です。トーマス・フィリップス大将の指揮下、世界に誇る大戦艦であるイギリス極東艦隊の旗艦「プリンス・オブ・ウェールズ」と戦艦「レパルス」が、相前後して本国を出発しました。そして、アフリカの南端ケープタウンを出港。高速でインド洋を横断。12月2日、シンガポールに入港します。艦隊は戦艦2隻、駆逐艦4隻です。
12月10日午前6時20分と7時55分、サイゴンとツドウムの航空基地から日本の索敵機11機、攻撃機85機が発進します。攻撃隊は航続距離限度まで南下し、午前11時45分、敵艦を発見すると、12時45分、襲い掛かります。250キロ爆弾が「レパルス」の砲塔に命中し、午後1時すぎ、元山・美幌・鹿屋航空隊が雷撃と爆撃を繰り返して追い詰め、2時3分、3万2,000トンの戦艦「レパルス」は、轟沈しました。直後、「プリンス・オブ・ウェールズ」は左に大傾斜。迂回して逃走を図りましたが、8機の日本機に追われて、2時20分、大爆発を起こし撃沈しました。英軍きっての逸材とうたわれたトーマス・フィリップス大将とジョン・リーチ艦長は艦とともに運命を共にし、死亡となりました。
反対を押し切って、2戦艦を東アジアに回航させたのはウィンストン・チャーチル首相です。日本の侵略行動の阻止が目的だったのですが、大敗を喫しました。日本軍の損害は3機、戦死は21名でした。こうして太平洋は日本のものになりました。
●陽動作戦が功を奏してシンガポール占領へ
今度はシンガポール占領です。シンガポールは、イギリスが20年...