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複雑なウクライナの宗教と民族との関係

ウクライナの宗教と民族の歴史(1)四大宗派併存の歴史と背景

山内昌之
東京大学名誉教授/歴史学者/武蔵野大学国際総合研究所客員教授
情報・テキスト
国際的関心の集まるウクライナ情勢だが、ウクライナを理解するにはこの地方特有の複雑な宗教と民族の関係を知らなければならない。ロシアとウクライナ、西部と東部、ローマカトリックとギリシア正教、といった二項対立のみでは語れないウクライナ独特の宗教文化を山内昌之氏が丹念にひもとく。(前編)
時間:15:51
収録日:2014/05/22
追加日:2014/06/05
≪全文≫

●ギリシア正教に端を発するウクライナ宗教史


 みなさん、こんにちは。本日は、今、国際情勢の焦点となっているウクライナについて、歴史的な視点から少し考えてみたいと思います。

 間もなくウクライナは大統領選挙を迎えようとしていますが、ウクライナについては、しばしば東ウクライナと西ウクライナとの対立、西部と東部との対立、あるいはロシアとウクライナ、ロシア人とウクライナ人、こういう対立関係で触れられることが多いのです。

 しかし、意外とウクライナの宗教問題については、語られていません。現在のウクライナ問題を理解する上でも、実はかなり歴史的に複雑なウクライナの宗教と民族との関係を理解する必要があるということについて、みなさんと一緒に今日は考えてみたいのです。

 ウクライナと呼ばれる地域では、もともと9世紀後半にキュリロスという人がスラブ諸民族への布教を開始し、真っ先にウクライナにはギリシア正教が持ち込まれました。このギリシア正教というのは何かと申しますと、もともとローマ帝国の全体において最も有力だったキリスト教ですが、395年のローマ帝国の分裂に伴い、首都ビザンチウム(後にコンスタンチノープルと呼ばれることになる)をいただく東ローマ帝国が、独自に皇帝のもとにおいて新しくキリスト教のあり方を模索したことに始まります。その東ローマ帝国におけるキリスト教、これがオーソドックな宗教、正統的な宗教だということで、ローマの教会に対抗しそれを無視する形で成立したのが、やがてギリシア正教、すなわちオーソドックスと呼ばれることになったのです。


●国家キエフ・ルーシが示すウクライナとロシア対立の複雑さ


 このギリシア正教は、北のほう、つまり黒海方面からスラブのほうにかけて広がりを見せていきます。9世紀後半にキュリロスという人物がスラブの間に布教したのですが、このキュリロスの名前は、キリル文字のキリルに残っています。すなわち、ロシア文字、ウクライナ語やロシア語で使われるあの独特なスラブの文字のことをキリル文字というのは、このキュリロスらがスラブ民族に布教するためにそういう文字をギリシア語に基づいて編み出したことに由来します。カトリック教で用いるラテン語に見られるような、普通に私たちがよく知っているアルファベットと違う独特なロシア文字、スラブ文字のアルファベットが、キュリロスらによって作られたと言われています。

 このキュリロスたちが布教した結果、10世紀後半になりますと、今のウクライナの首都であるキエフを中心として成立していたルーシと呼ばれる国家、これがキリスト教を国教として採用するようになりました。

 ウクライナ人からすれば、このキエフ・ルーシという国家を指してこの時期にウクライナ国家ができたと、このように言うのですが、その一方で、このルーシという古い言葉がそもそもロシア人やロシアを意味するということからも知られるように、実はこれはロシア国家であるということを、一貫してロシア人たちは主張し続けています。つまり、キエフ・ルーシという、スラブの間でも一番古いといわれるキリスト教を国教化した国家が、ウクライナ系であったのか、ロシア系であったのかということから、そもそも問題は複雑なのであります。


●ビザンツの正教とローマのカトリックが、併存から分離に至るまで


 先ほど申した東ローマ帝国、すなわちビザンツ帝国のキリスト教会における最高指導者は、総司教と呼ばれます。ビザンツの総司教は首都ビザンチウム(後のコンスタンチノープル)に置かれ、スラブ、ひいては後に中東、アラブの世界にまでそうした正教というものが広がりを見せていくようになります。

 しかし、ギリシア正教はすぐにローマ帝国のもともとのふるさとであったローマのカトリックと断絶し、そして、対立したわけでもないのです。先ほど述べたように、ローマ帝国自体は395年に東西に分裂します。そして、476年、5世紀に西ローマ帝国は滅亡します。そこで困ったのが、当時ローマの教会を指導していた、今のカトリックでいうところの教皇、あるいは法王といった人です。

 そもそも自分たち教皇を庇護してくれるはずの皇帝がビザンツに移り、そして、そこで新しくコンスタンチノープルでビザンツ大司教という新しい大司教座を設けたために、ローマの権威は落ちていく一方でありました。  

 そこでこのローマに残ったカトリックの教皇、法王は、思い切った手を打ちます。それは、自分の手である人物に皇帝の冠を授けようとしたということです。その人物とは、カール大帝であります。西暦800年にローマの教皇は、フランク族のリーダーであるカール大帝ことシャルルマーニュに帝冠を授ける。こうして西ローマ帝国が復活したという体制をとるのです。

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