●資本主義は、哲学や宗教の問題でもある
中島隆博です。私は哲学、特に中国哲学を専門にしています。普通に考えると、今回のテーマである資本主義からは随分縁遠い領域を勉強しているわけです。しかし私が研究の中心にしている哲学や宗教にも、資本主義の問題は絶えず入ってきています。
以前にもマックスウェーバーの『プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神』についてお話ししましたが、一見すると単なる経済活動に見える資本主義には、掘っていくと多面的な要素があります。そこには哲学や宗教の問題がかなり反映されている。こういうことがよく分かってきたところです。
現在の中国は非常に面白い資本主義の形態をとっていると思います。ひょっとするとわれわれが想像しているのとも違うものが出てきているのではないでしょうか。あるいはそのスピードがわれわれの予想をはるかに超えているのではないでしょうか。皆さんもこのように感じていることかと思います。
こうした状況の中で、これからの資本主義をどのように考えていけばいいのでしょうか。これからの資本主義のための座標軸のようなものを設定できないか、ということを今日のテーマにしたいと思っています。
タイトルとして「人の資本主義」という非常にシンプルなものを掲げました。この背景に私が考えているのは、資本主義には「モノの資本主義」、「コトの資本主義」、「人の資本主義」という異なるフェーズがあるのではないかということです。
●テクノロジーは私たちの身体をコントロールしている
ちょうど今、「ソサエティ5.0」のような議論があります。非常に高度に発展したテクノロジーが支える未来社会というイメージです。イノベーションに基づき、どのような新しい社会が到来するのかということを考えた際、いろいろな考え方がありますが、念頭に置く必要があるのは、そうした新しい社会とは20世紀の後半に考えられていた未来社会とはひょっとすると異なるものが到来するのではないかということです。それはユートピアなのかディストピアなのか、あるいは両方なのか、まだわれわれには分かりません。
私はあまり新しい文学作品を読まないのですが、伊藤計劃という方の『ハーモニー』(早川書房)という小説が10年前に出ました。これはIoTやビックデータ、AIといった人間を凌駕するようなテクノロジーに支えられた社会では、一体どのようなことが起きるのかということを考えた一種のSF作品です。
そこではこの引用のようなことが語られています。「自分のカラダを健康に保つこと――それに取り憑かれたこの日本という国、いや世界中の全生府圏(この「生府」というのは政府ではなくライフの「生」という字が用いられています)のどこを探しても存在しない。生府の許にあっては、かつては気にされることがなかった様々な嗜好品が、医学の大いなる手によって有罪のリストに組み込まれて、次々に社会から追い出されていっている」
あるいはこんなことを言っています。テクノロジーに支えられた社会において浸透している生命至上主義とは、「構成員の健康の保全を統治機構にとって最大の責務と見なす政治的主張、若しくはその傾向」である。
ここで語られているのは、非常に高度に発展したテクノロジーにより、われわれのライフ、生というものがマネジメントされているような社会です。もちろんわれわれは健康に生きていきたいと思っています。今のジェロントロジー、つまり老年学のような世界でも言われているように、できれば健康な心身を保ったまま老いていきたいと思っているでしょう。それが理想であり、当然そのためにテクノロジーを積極的に利用しようという考えがあります。ただそれをひっくり返すと、テクノロジーによって、われわれの身体はある仕方でコントロールされていきます。上述した社会はそういうものでもあり得るわけです。
●「生政治」が現代以降の社会にとっての重要なポイントに
このように統治が身体に関与していく状況は、実は新しいことではありません。後でご紹介するミシェル・フーコーという人が晩年に考えていたバイオポリティクス、フランス語ではビオポリティークというテーマは、このことを扱っています。日本語では「生政治」と訳されています。
フーコーは、バイオに関する政治が現代以降の社会にとって非常に重要なポイントなのではないかということ主張しました。伊東さんの作品は、このバイオポリティクスの未来形ではないかと思っているのです。伊藤さんはこれをディストピアとして描いていると思うのですが、私たちはこうしたものから逃れていくことはできないのでしょうか。それを今日は一緒に考えてみたいと思っ...