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フーコーの「人間概念の消失」議論の背景にあったのは?

人の資本主義(3)人間という概念の変遷

中島隆博
東京大学東洋文化研究所 教授
情報・テキスト
フーコーの「人間概念の消滅」という議論は、それぞれの時代において、異なる経済構造が駆動していたことから理解することができると、中島隆博氏は考える。では人間という概念、その本質に関するイメージは、どのように変わってきたのだろうか。(2018年5月15日開催日本ビジネス協会JBCインタラクティブセミナー講演「人の資本主義」より、全8話中第3話)
時間:13:53
収録日:2018/05/15
追加日:2019/02/27
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≪全文≫

●近代を支えていたのは、主体的に労働する人間であった


 フーコーは次のような時代区分をしていきます。まずルネサンスと、その後に来る17世紀から18世紀にかけての古典主義の時代を区別します。その古典主義を受けてフランス革命が起きるので、その後に近代が本格的に登場します。ここまではそれほどわれわれにとっても難解ではないと思います。19世紀的な近代を支えたのが先の人間概念でした。ところがさらに、20世紀の現代が到来すると、この人間概念は終わりを迎えるのではないのか、とフーコーは言うのです。こうした時期区分から、人間概念の消失という見通しを持っていたわけです。これは何を背景にして言っているのでしょうか。

 これを考えるためにご覧いただきたいのがアダム・スミスの『国富論』です。これは1776年に刊行されました。原題は『諸国民の富の性質と原因の研究』です。18世紀の書物なので、まさにフーコーが言う古典主義時代の最後に書かれました。その次の時代である近代を開いていくような本なのです。これは初期資本主義を定式化したものなので、近代の人間概念にとって資本主義が決定的に重要な働きをしています。

 この『国富論』で何が問われていたのでしょうか。スミスは、「古典主義の時代における富というのは交換に基づいていた。ところが19世紀的な近代における富は生産に基づいている。そしてその生産を支えるのが労働する人間である」と言います。人間が労働を通じてモノを生産し、富を増やしていくモデルをスミスは提唱したわけです。それまでの富は生産と労働に基づいておらず、交換に基づいていました。教科書的なものでいえば、例えば重商主義がそれにあたります。重商主義は、ある産物を別の所と交換し、その差異によって富を生み出していくという考えです。この考えによれば、常に自分の経済圏の外が必ずなければいけません。ヨーロッパが大航海時代に世界に広がっていったのはそのためで、富を増やしていくモデルは、交換に基づいていました。

 当時のヨーロッパはユーラシア大陸の西にある小さなエリアで、それほど豊かではありませんでした。東洋の方が圧倒的に豊かでした。ヨーロッパは東洋への憧れを持ち、例えば香辛料のように、特に中国の豊かな財を持ってくることで富を得ようとする考えがありました。

 ところが近代になるとその考えが変わり、自分達で生産をしていくことが目指されました。特にこの生産を可能にしているのが、化石燃料でした。今まで見えてこなかった地下の資源を使って富を生み出していくというモデルが、近代に登場するのです。

 このようなモデルにおいて、近代の人間とは何かというと、富を所有しつつ、基本的には生産をする人、労働する人です。このような人間観が登場しました。


●現代になると、人間は差異のネットワークに置き換わる


 ところが、20世紀になると、このような近代的な人間観というのが消えかかっているのではないか、という議論をフーコーはしているわけです。どういうことなのでしょうか。

 ここで考えたいのが「差異」というものです。私はこれをカタカナで「コト」と呼ぶと良いのではないかと思っています。モノをたくさん生産し、それを消費するというモデルは、もちろん今でもある程度有効です。ですが、今どこに資本が向かっているのかというと、モノはなく、ある種の出来事や情報、つまりコトです。そうすると、こうした「コトの資本主義」の中で登場している人間は、差異、つまり違いを消費する人間です。あるいは人間自身が差異として消費されていきます。これは生産し労働する人間像とはだいぶ違います。今の資本というのは、一生懸命差異を作っているのです。差異がない所でも差異を作っていき、それを消費するというのを運動に変えているのです。こうした時代が20世紀を通じて進展していったのだろうと思います。

 こうした経緯についてフーコーは次のように考えました。生産し労働する人間は別の言葉で言い換えると主体だが、現代において人間は主体的ではなくなっているのではないか。人間はこの差異のネットワークに登録された関係性に過ぎないのではないか。主体から関係へ、人間は変わっていっているのではないか。

 もちろんこの考えは、哲学において先取りされています。例えば日本の近代哲学は、ヨーロッパ的な主体概念に対して非常にアンビバレントな立場をとりました。つまり、一方でこうした主体概念は近代の産物だから日本においても受け入れなければならないが、他方で日本の特殊性を考えると、そのまま受け入れることもやはりできない、と考えた...
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