●「葉隠十戒」とは何か
―― 本日はいよいよ武士道のお話をうかがいます。
執行 いよいよというほどでもないですが(笑)、僕の中心思想は武士道ですから。
―― これまで「テンミニッツTV」でご講義いただいた中でも、先生の大事な思想として武士道が出てきました。まさにそこの神髄に迫るお話をうかがいたいと思います。
まず最初に一般の方にとって武士道は、新渡戸稲造さんの『武士道』のイメージが強いだろうと思います。先生はどちらかというと新渡戸さんの武士道というよりは、『葉隠』の思想ということですね。先生は、その違いをどう見ておられますか。
執行 僕にとって武士道は、もちろん日本文化としても好きですが、基本的に「武士道の実践」の話です。もともと『葉隠』は実践の書です。昔の武士が、自分が武士としてどう生きて、どう死ぬかが書かれています。だから僕が参考にしている武士道は『葉隠』しかありません。『葉隠』以外でも好きな本は多いですが、これらは武士道の理論書あるいは解説書です。理論は僕も好きですが、「武士道そのもの」ではありません。
武士道そのものは、『葉隠』に書いてあります。その『葉隠』の思想は、文学ではなく、文章でもありません。重要なのは『葉隠』の思想を、自分の中でどう生かすかです。『葉隠』のとおりに生きられるか生きられないかが問われているのです。僕は読書がものすごく好きで、本を死ぬほど読んでいますが、武士道に関する本はいくら読んでも、自分が実践しなければ0点です。
―― 実践哲学としての武士道というところですね。
執行 実践哲学というより、武士道は本当は哲学でもなく、「実践道」です。昔の日本の言葉で言うなら、「道(みち)」であり「行(ぎょう)」です。本当は活字で表すものではありませんが、活字にしないとどうしても伝えられないので、活字に移している感じです。
実際、『葉隠』は聞き書きで、キリストの福音書と同じです。キリストは著者ではありません。釈迦もそうです。すべて釈迦やキリストから話を聞いた人が、あとで記録したものです。『葉隠』も同じです。
そして僕にとっては『葉隠』だけが武士道で、あとのものは、もちろん好きなのですが、少し違う。とくに江戸時代の朱子学の道徳を述べたものは、僕などはダメです。僕は武士道が好きなので、よく道徳家に間違えられることが多いのですが、これが一番不満です。
―― 不満ですか。
執行 それは不満です。僕は道徳家ではないのですから。僕は悪いことばかりしてきたから道徳家ではないのに、道徳家と勝手に誤解され、いろいろ言われてしまう。それが本当に嫌なのです。武士道とは道徳ではありませんからね。
―― おっしゃるように、『葉隠』はまさに聞き書きの本で、山本常朝が「昔の武士はこうだった」とか「鍋島藩の藩祖がこういう活躍をした」などと語ったものです。そして武士としてよく働くためには、こういうふうに生きなければならないといったことを非常に細かく述べています。先生はそのエッセンスをギュッとまとめた「葉隠十戒」をお作りになりました。
執行 エッセンスというか、僕が好きな思想です。『葉隠』全体のエッセンスとはいいませんが、『葉隠』の中で僕が感応した項目をまとめています。小学校5年のときに作りました。
―― これを5年生で……。
執行 僕が『葉隠』を一番最初に好きになったのは、小学校1年です。人生で一番最初に読んだ本が『葉隠』で、それまでは絵本も読んだことありませんでした。私の親はあまり教育にうるさくなかったので、小さい頃は本を何も読みませんでした。
そして小学校に入る前に生きるか死ぬかという大病をして、その大病から命拾いして、退院してきて、家に帰ったとき、一番最初に父の本棚から、わけがわからないけれど、何かの本を読みたくなって、たまたま手に取ったのが『葉隠』だった。だから僕はこれを「運命」と言っています。小学校1年になる前ですから、もちろん読めるわけありません。それでも何が何でも読みたいという欲望を持って、母に全部仮名を振ってもらい読んだのです。ようやく平仮名が読めるようになっていましたから。それで『葉隠』が、すごく好きになったのです。
これは僕が一番自慢しているところですが、『葉隠』に書いてあることがあまりにも格好いいので、小学校1年で「絶対にこのように生きよう」と決めました。今69歳ですが、この決意はいまだ1日も微動だにしていません。こういう人間は現代では、ほとんどいないでしょう。それがもっとも誇りとするところです。
●山本常朝との「対話」が武士道
―― 運命的な出合いですね。
執行 運命としか思えません。偉いという話ではなく、やはり運命なのです。
―― 何に出合ったかというところですね。
執行 それも...