●三国同盟成立前夜
今回から、大名同士の和睦・同盟の成立過程を掘り下げていきます。和睦と同盟の違いは非常に単純で、前者が停戦合意にとどまるのに対し、後者は相互不可侵だけでなく、軍事支援協定を含みます。
今回は、同盟成立のおおよその流れをみていきます。事例としては、甲斐の武田信玄、駿河の今川義元、相模の北条氏康が結んだ三国同盟です。これは三大名の勢力拡大を支えた同盟として非常に有名で、小説やドラマなどでは三大名が直接面談するシーンがしばしば描かれます。もっとも、三大名が一同に会したというのはフィクションで、実際にあった出来事ではありません。
●前提にある三者の対立構造の変化
さて、この三国同盟ですが、武田信玄の父親である武田信虎、今川義元の兄である今川氏輝、北条氏康の父である北条氏綱(いわゆる北条早雲こと伊勢宗瑞の嫡男といったほうが分かりやすいでしょう)といった父親たちの時代は、今川氏と北条氏が同盟を結んで、武田信虎と戦う、という対立構造にありました。
事態が急変したのは、今川氏輝の病死とその跡継ぎをめぐる御家騒動でした。この御家騒動は、北条氏綱の援軍を得た今川義元の勝利に終わるのですが、家督を継いだ今川義元が、突然武田信虎と同盟を結ぶのです。北条氏綱の反対を押し切っての強硬策でした。この理由はよく分からないのですが、今川義元が後になって書いた書状を読むと、どうも北条氏の援軍の振る舞いに何か問題があったようです。つまり、せっかく北条氏綱が送った援軍が、今川家の面目を潰すものと受け止められ、裏目に出たのです。
とはいえ、武田・今川同盟の成立には、今度は北条氏綱が黙っていられません。今までは一緒に武田信虎と戦ってきた経緯がある上、再三の反対を押し切っての同盟です。これでは自分の面目は丸潰れだ、北条氏綱もこう考えたようです。この結果、北条氏綱は今川義元との同盟を破棄し、今川氏の本国である駿河の東半分を占領してしまいます。この結果、武田・今川同盟対北条氏という新しい構図が出現しました。
●同盟破壊の原因は「顔を潰された」点にある
さて、ここで注目して頂きたいのは、同盟関係を破壊した原動力が何か、という点です。それは大名の面目でした。顔を潰されたと考えた大名は、今までの関係を破壊する方向に動くことがよくあるのです。中世の武士の気質は、いわゆる武士道とは全く違います。武士道とは、近代に入って、ヨーロッパ騎士道と対比するために、理想化して描かれた武士像です。そのため、近世武士の考え方とも異なり、ましてや戦国時代の実像とはかけ離れたものです。
戦国時代までの武士の気性は、かなり荒々しいもので、逆にいえば相手の顔を重んじるということが、極めて大切なことでした。「顔を潰す」ということが侮辱と受け止められ、非常に嫌われたのです。より正確にいえば、顔を潰されたのを黙って我慢をしてしまうと、周囲から舐められてしまいます。そうなると、格好の的になってしまうので、実力行使で反撃をする必要がありました。このラインを、北条氏綱も今川義元も、双方が読み間違えたわけです。
●武田と北条の同盟成立
では、ここからどうやって三国同盟が成立するのでしょうか。きっかけは、天文10(1541)年に起きた政権交代でした。この年、武田信玄が父親である武田信虎を追放し、家督を継ぎます。北条家でも、北条氏綱が病死して、息子の氏康が家督を継ぎました。小田原北条氏三代目の誕生です。特に北条氏は周囲を敵国に囲まれていたという事情があり、武田氏も信濃、長野県への軍事行動を繰り返していた時期で、両国ともに不安定な情勢でした。そこで両国で関係改善の機運が生まれたようなのです。
そこで和睦交渉に入るわけですが、これまで武田・北条両氏は戦争状態にありました。関係が悪いからこそ、和睦や同盟を結びます。したがって、外交交渉の第一の目的は、険悪な関係の改善や、戦争の中止です。この時の武田・北条もそうでした。ということは、当然、交渉が失敗に終わることも想定しなければなりません。また、最初から譲歩姿勢を取ることは外交戦略上も得策ではありませんし、頭を下げて和睦してくれないかということになると、それは何よりも大名の面目が許しません。ここでも、やはり面目が重要です。
そこで採られたのが、大名がお互いの家臣を領国の中間地点、つまり国境に派遣して、予備交渉を行わせるという手法でした。家臣同士の話し合いであれば、交渉が決裂しても大名の面目は守られるというわけです。これは現在の国際外交でも同様かと思います。余程のことがない限り、まず外務官僚なりの事務方が予備交渉を重ねて、外務大臣なり国家元首が話し合って、最終的な外交が成...