●愛するものがなく、自分のためだけにやるのは「匹夫の勇」
―― 次に武士道と家庭についてお聞きしたいのですが、ちょうど東大教授でいらっしゃって日本倫理思想史の菅野覚明先生(東京大学名誉教授、皇學館大学特別招聘教授)が、PHP新書で『本当の武士道とは何か』という本を出されました。
執行 あの人は学問としての日本の武士道ではトップですね。一番面白い。
―― その菅野覚明先生が、本のなかで「武士道の強さを支えるものは、家庭をどれだけ深く愛しているかだ」と述べています。
執行 当然そうです。
―― それを思い切る。深く愛せば愛するほど、それを思い切って仕事をしなければいけない。逆に言うと深く愛せない人間は、強くもない。家庭を深く大事にするからこそ、強さというものが出てくる。昔だと家をすごく大事にしていたので、それと比例関係で武士道の強さがあるのだと。
執行 そのとおりです。ついこのあいだまでは、だから家庭を持ってない人は信用がありませんでした。自己固執とか、自分のためにやったものは「匹夫(ひっぷ)の勇」と言われ、たとえ勇気があっても、くだらないヤツ、素浪人の勇気と見なされました。もう全然、武士道ではありません。
武士道とは、「愛」のために自分の身を捧げるものです。「愛するもの」がなければダメなのです。何かを守るために生まれた一つの暴力システムが、武士道であり、騎士道なのです。この武士道と騎士道の前には「愛」があります。愛があり、愛のために戦わなければダメだ、立ち上がらなければダメだ、喧嘩をしなければ、殺し合いをしなければダメだというのが武士道です。実際、そういう場面はありますから。
―― いかに愛するものを守るか。
執行 そうです。だから愛するものがないと、武士道や騎士道と同じものは今流に言うと、ただの暴力になります。人を斬るのですから。
―― 気に食わないから斬るということですね。
執行 そういう話になってしまいます。だから似ているようで、全然違うのです。昔の武士の条件は何かというと、楠木正成の時代から、まずは「財産を持っていること」でした。家族よりもっと前に、土地や家といった財産を持っていなければならない。そして、いざというときに、その財産を捨てるだけの勇気がなければダメなのです。捨てるべき財産がない人の意見は「匹夫の意見」で、問題にならないのです。今の民主主義では、よく道を歩いている人に質問していますが、自分に何も失うものがなければ何でも言えます。失うものがある人の意見以外は、本当の意見ではないというのが、昔の捉え方です。
そして、失うものが大きいほど、価値が高くなります。日本だけでなく、ヨーロッパもそうです。例えば英国のジェントルマンは武士道と同じです。英国ジェントルマンは西欧自由主義と言われ、この自由は「持つ思想が何でもいい」という意味です。これが19世紀の英国自由主義で、僕は大好きです。パブリックスクールからオックスフォード大学やケンブリッジ大学を出て、一つの思想を持ち、その思想のために死ねるのがジェントルマンです。そのただ一つの思想、死ぬための思想を持っていない人は、ジェントルマンとしては認められない。
そして持つ思想は何でもいいというのが、英国自由主義です。
―― そこが自由だと。
執行 ただし、持った一つのために死ななければならない。要するに、武士道もそうです。そして財産は、あるほどいい。その財産の中に、家族も入っています。だから家族への愛が強いほど、その愛を捨てるか捨てないかの判断を求められるのが武士道です。家族がいるから何かができないというのは話が逆で、愛が強いほど、捨てるときの武士道も強いのです。
―― そこがまさに「死に物狂い」の本質なのですね。
執行 そうです。その本質を問う場合、家族を愛する力が強い人、財産をたくさん持っている人ほど、本気かどうかがわかるわけですから。
―― 「死ぬ気で行く」のは、負けたらすべて失うから。
執行 それでもやるのか、やらないかです。昔の言葉で言うなら、「財産や、愛する者を捨てる覚悟もないなら、生意気なこと言わずにすっこんでろ」ということです。
●武士道は、美学だからこそ「生意気」なのだ
執行 武士道はある種の美学ですから、生意気なのです。僕が言っていることも、生意気です。僕の親父は本当に死ぬまで、僕のことを「この生意気な野郎だけは絶対許さん」と言っていました。親父には悪いと思っていますが、仕方ないのです。武士道は美学で、美学は生意気なのです。生意気なことを言うには、それなりの覚悟が必要です。だから覚悟がなくて武士道を語る人は、最もみっともない。
菅野覚明さんの武士道の理論は、一番わかりやすくて素晴らしい。僕は講談社から出ていた『武士道...