●「僕は、このへんでいい」と言ったら人生は終わる
―― 「葉隠十戒」の第十戒は「同じ人間が、誰に劣り申すべきや」ですね。
執行 これは武士道の根本の中の根本で、僕の人生観の中でも最大のものの一つです。僕は死ぬほど本を読んできて、読書家として知られています。僕がそれほど本を読めた理由は、どんな歴史上のすごい人でも、自分と同じ人間なのだから、誰が書いた本でも自分が体得できないものは絶対にないという信念があるからです。そういう気持ちで読んできました。だから僕は読んだ本が全部、身についているほうです。それはそういう気持ちで読んだからで、その始まりが今の言葉です。
ここが武士道の一番好きなところで、僕が言う真の平等思想、真の人間性、真のヒューマニズムです。
武士道とは精神性から見て、本当に男らしく生きたか生きないか、女性なら女らしく生きたか生きないか、それだけを問うものです。武士道の前では天皇だろうが殿様だろうが、奉行だろうがヒラだろうが、全員平等です。将軍でも武士道の考えからして卑怯な真似をすれば、単なる卑怯者です。百姓でも武士道に憧れて生きれば、近藤勇や土方歳三を見ればわかるように、本当の武士として尊敬されます。それが武士道です。ここが武士道の一番素晴らしいところです。
だから、どんな人間よりも上だし、どんな人間よりも下ではない。絶対価値なのです。この思想を堅持して、僕はあらゆるものの自己責任を感じることができました。だから僕は自分よりも能力があると思う人はいないし、自分が羨む人も一人もいません。「誰にでも、なりたければなれる」という考えです。僕はたまたま人間で肉体が1つしかないから、今こういう職業をやっているけれど、映画スターになりたければ、なれると思っています。文学者になれば、世界的な文学者にもなれると思っています。「同じ人間に生まれて、自分にできないことは、この世にはない」と思っていますから。
―― そこが、この前にうかがった「失敗をどう認めるか」とか「自分の実力をどう評価するか」というところに、すごく結びつくと思います。
執行 たぶん、そうです。
―― 自分はやれば、できる。
執行 できます。
―― この言葉のとおりに、「同じ人間が、誰に劣り申すべきや」と思っていれば、今の段階で間違いを認めても、それはいいわけですね。
執行 もちろんです。次がありますから。山本常朝もそうですが、どれだけ過去の優れた武士であっても、今はダメでも何度も何度も挑戦すれば、必ずそうなれると思っているから、やれるのです。僕もそうです。みんなそうです。逆に「あの人は才能あるから」と思ってしまったら、もうそれで終わりです。
―― 「自分にはもう才能がないから、ここまでです」と言ってしまったら、人生が終わりですね。
執行 本人がそう言ったら、そこで終わり。人生とは、本人がどこでそれを言うかです。「僕は、このへんでいいや」とか。僕は今69歳ですが、まるっきり思っていません。もっと相当、上に行かないと納得しないので、まだまだやるけれども、どこまでやるか。その根本思想が、第十戒です。
―― 本当にいい言葉ですね。「同じ人間が、誰に劣り申すべきや」。
執行 これは、本当に武士らしく生きたい、武士として死にたいと思った山本常朝が言った言葉です。やはり今の人の言葉とは違い、真実が入っています。そう思わなければ武士道に一生、挑戦していけません。
―― 常に自分が行くべき高みが、どこまでもあるのですね。
執行 僕はあらゆる立派な人を尊敬しているので、高みと言えばキリがありません。
―― 自分も絶対そこまで行くはずだと。
執行 絶対に、僕はそう思っています。行かなくてもいいけれども、行く努力の中に自分があるのですから。そこには武士の一番有名だった人も当然入っていて、ほかにも僕の好きな人全部が入っています。宗教家ならキリスト教の聖人、聖アウグスティヌスだろうが何だろうが、同じ域の精神性まで、僕は行けると思っています。だから昔の中世の哲学の勉強を今でも毎日しています。もう絶対に行けると信じて疑いません。だって、同じ人間に生まれたのですから。それで、そう思ってできなかったことは僕の場合、一つもありません。
●「心が傷ついた」は低い人間の言葉
―― 先ほど武士道は、本当の意味での平等思想とおっしゃいました。
執行 武士道以上の平等思想はありません。これは西洋の騎士道も同じです。
―― 西洋の場合、キリスト教の「神の前の平等」が、まさにそうです。それに向かって死ぬ気で尽くした人は「平等」だという。
執行 もちろん昔のキリスト教も、そういう見方です。聖フランシスコという有名な聖人がいましたが、彼は今流に言えば、死ぬまでただの乞食でした。乞食だ...