●皇道派の思想は天皇を崇める精神主義である
陸軍の話に少しだけ補足をします。これは『未完のファシズム』という本の中の一つの本題なのですが、第一次世界大戦を知れば知るほど、その中心人物である軍人が、二・二六事件を起こしていたことがわかります。彼らが、二・二六事件を起こす皇道派の核心をなす将軍たちになるのです。
例えば、荒木貞夫や小畑敏四郎です。さらには、真崎甚三郎が二・二六事件に大きな役割を持ちます。皇道派とは、「天皇の道」と書くので、天皇陛下を最上の存在として考え、天皇のための軍隊を編成しようとする立場です。こうした皇道派の将軍たちは、天皇陛下のために精神を鍛えて訓練をすれば、強い陸軍ができると考えました。
●経済力を重要視する統制派が皇道派を強く批判
こうした発想は、日露戦争や第一次世界大戦後の時代を考えれば、「何を言っているんだ。そんなことで勝てるような時代は終わったぞ」と言われるでしょう。実際にいかに装備を近代化して、数を持つかということに尽きているではないかと批判されました。こうした批判は、田中義一から永田鉄山の流れに至る、陸軍における統制派の考え方です。
彼らからすれば、やはり陸軍は装備がきちんとしていなくてはなりません。そして、後に「統制派」と呼ばれる永田らのグループは、こう考えました。それは陸軍だけでは実現できない。日本の経済成長を図るような、内閣をはじめとした機能と陸軍が共同して工業生産力を高め、いざというときは、民間企業で多くの鉄砲の弾や軍のための車両が造れるような生産体制が求められます。日本は社会主義国ではないので、普段は民間の需要の中でさまざまなものをつくっています。そうした生産ラインを、いざと言うときに戦車や弾に変更できるような工場を、民需の中で維持できる国家を、軍と内閣が共同でデザインしていくことを提唱したのです。統制派は、こうして国家総動員体制をつくることを目指しました。
●統制派の思想は日本では実現不可能だった
ところが、この統制派の思想は、日本では実現できないと見なされました。なぜなら国力に開きがありすぎるので本気になってやろうと思っても、アメリカやソ連に勝ち目はないだろうと考えられたからです。そう見限っていたのは、実は皇道派でした。
皇道派は、「精神力で勝てる」などと言うので、よくバカにされます。陸軍に詳しい方ほどバカにするのですが、私は全くバカにはしません。それどころか、彼らのほうが統制派よりもはるかにリアリストです。統制派は、日本の工業生産力を、短期間でアメリカやソビエト、イギリス、フランスに拮抗させられるくらいまで育てようと考えましたが、それは無茶です。そうした国家デザインをしつつ、さらに軍備も増強しようとすると、国家予算そのものも、そのうちの軍事費の割合も増加していきます。
戦争をする前に仮想敵国に勝とうとして、軍備を整えつつ、その軍備をキープするような巨大な第二次産業を育てていこうとしても、日本は第一次産業中心の国なので、成立しません。大正期に工業化がさらに進んだといっても、当時の日本はまだ圧倒的に農民の方が多い時代でした。そうした人達に負担を掛けながら税金も増やして軍事費を増やし、財閥とか大企業を中心とした都会を重視して地方を切り捨てるという方針は、成り立ちません。
●農民を犠牲にしたイングランドの近代化
イギリスの近代化は、そのようにしてスコットランドやウェールズ、アイルランドを犠牲にし、イングランドの工業生産に国力を集中させることで実現していきました。しかし、イギリスが実現したのも、長い時間をかけたからです。統制派的な思想で短期的にこれを実現しようとしても、農民が怒るのです。
さらに、そのための巨大な軍事費を注ぎ込んでも、イギリスやアメリカに勝てるような軍事規模を持つことは不可能に近いのです。国内に不満を溜めながら、いざというときには勝てないかもしれない軍備を増強するような統制派ビジョンというのは、国を滅ぼすことにつながります。これが皇道派の思想です。
●ロシア革命の現場を見た皇道派が恐怖した日本のシナリオ
どうして皇道派がそう思ったのでしょうか。皇道派の中心人物である荒木貞夫と小畑敏四郎という2人の陸軍の将軍は、第一次世界大戦の時にロシアに行っていました。第一次世界大戦の時のロシアは、日露戦争と違って日本の味方で、ドイツと戦っていました。そこで日本の陸軍は、大量に観戦武官をロシアに送り込みました。ドイツとロシアが戦っている前線まで行き、見聞してきたのです。荒木と小畑もその一員として、ロシアにいました。そしてロシア革命の状況に詳しくなりました。
そこで分かったことは、次のようなことです。ロシアは第一次世界大戦の時...