●「雁寒潭を渡る」…抗議運動の闘士相手にもまったく折れなかった
―― あと先ほど言われた「勇気」に関する、印象深い渡部昇一先生のエピソードとして、(作家の)大西巨人さんと論争したときの話があります。毎回、講義をするときに、当時のことですから学生運動の闘士たちがやってきて、ヤーヤーヤーヤーと騒ぐ。
そのような時期に、昇一先生は夜寝る前、『菜根譚』の「雁寒潭を渡る」という言葉をずっと唱えていたと、おっしゃっていました。「雁が過ぎていったら、あとは静かな水面が残るだけ」と。その言葉を唱えることで、「この騒ぎもそのうち静かになるだろう」と一歩も折れずに、やいのやいのと言われても頑張り続けた。そして奥様も、そこまで追い込まれていることに気づかないくらいだったと。印象深いお話だと思いました。
学生運動の闘士から突き上げられるのは相当なプレッシャーだったと思いますが、それに平然と立ち向かわれた。この勇気が、どのように生まれるのか。
渡部 そこはわかりせんが、本当に父はいざとなったら絶対折れない人でしたので、通したのだと思います。そうすると、そのお話でいえば、だんだん、講義を受けている学生が味方してくるんです。最初は怯えて何も言わなかったのが、「おまえたち、出ていけ」と。そちらが味方になってくる。
―― 学生運動ではないほうの方々ですね。
渡部 そうです。それが、だんだん強くなってくる。しかも論争は、必ず打ち負かしていたらしいので。それで、だんだん引いていって、向こうから和解してくるような感じになってきた。
そうしたら、ほかの大学から、「渡部先生はどうやって撃退したんですか?」という問い合わせが、けっこう来たらしいです(笑)。撃退したつもりはないけれど、まったく折れなかったという話を、後年、聞きました。
このときに父らしいと思ったのは、母はまったく気がつかない。もちろん、子どもも気がつかない。だから「しんどい」といっても、たぶん他の人にはわからなかったし、家族にもわからなかったということです。
あと、いろいろ脅しも受けました。やはりけっこう怖い脅しです。今は、保守といわれる論客の方もたくさんいるし、むしろ父より過激な主張をする人もたくさんいらっしゃる。でも当時はかなり本当に厳しい状況で、脅迫もされました。今のようにインターネットではないから、直接電話や手紙が来たり、何かを入れられたり。でも絶対に、散歩はやめない。
―― お1人で。
渡部 そうです。だから母に頼まれて、当時、高校生ぐらいだった私と弟が、散歩のあとを遠くからついていったりしたのも懐かしい思い出です。警察がいつも見回りには来ていましたが、ある種、不思議な、無神経なぐらい気にしなかったです。
●「自分がひるむとき」とはどういうときか?
―― 「いかに人間が勇気を持つべきか」というときには、当然、知的背景も必要になると思います。どういう覚悟なり知的な教養を積んでいくと、勇気を得られるのでしょう。
執行 私の経験でいえば、昇一先生もそうでしょうが、やはり「自分の運命を愛する」ことです。自分の運命を愛して、自分の人生にすべて体当たりしていれば、勇気はどんどん湧いてくると思う。私自身はそうです。
自分がひるむときもありましたが、それは「自分の人生」を生きていないときです。人との比較。それに欲や、名声などです。名声の中には「人から好かれたい」というものも入ります。「誰かに好かれたい」とか、そういうのが出ると、本当に人間は弱くなります。
私は武士道が好きで、禅も好きで、相当修行したつもりでいました。でも30代だったか、自分の子どもの受験のときです。小学校受験をしたのですが、このときは本当に心が砕けました、怖くて。自分で、本当にダメだと思いました。「子どもには子どもの人生がある」「子どもには子どもの運命がある」とわかっている。私自身、「俺は俺の運命を生きる」という生き方を死ぬまで通すつもりでいたのですが、子どもの小学校受験だけはダメでした。今でも覚えています。
では、なぜダメかというと、やはり子どもであって、自分ではないから。そして「小学校に受かってほしい」というのは「欲」なのです。「これは子どもが持っている運命で、受かるなら受かる、落ちるなら落ちる」とは思えない。ここで、ひるんだ。だから私は、あの「ひるんだ思い出」を、今でもそれが出そうな気配が少しでもすると、すぐに思い出すようにしています。
そういう意味では、私は教養があるのかもしれません。つまり小林秀雄の「上手に思い出す」ということです。私は子どもの小学校受験のときの恐怖心を思い出して、「ああ、いかんいかん」と思うようにしている。前もって思い出すから、ひるむことはない。自分自身は、「死んで...