●現代にまでつながっていく徳川家康の功績とは
―― 先生は「将軍の世紀」という数年間にわたる大作で、いろいろな史料を読み砕きました。今の社会につながることとして、徳川家康が最初に作った江戸時代というものが果たした役割、徳川家康の果たした役割ということについて、先生に少しお話をいただければなと思います。
山内 徳川家康の大きな役割というのはいろいろとあるのですが、二つあると思うのです。現在の日本につながっていくという意味では。
一つはやはり、平和と統治という問題について、きちっと理念だけではなくて、政治は現実や結果責任ですから、その理想と現実、それをつないでいくものとしての結果責任というものをはっきり明確にして、平和国家というものをつくり上げたことです。270年間にわたって江戸時代というものは、戦乱がなかった。内乱・内戦というのが基本的になかった、そういう世界史的にも稀有な国なのです。それをつくり上げたということが、徳川家康の果たした一つ目の大きな役割です。
それから二つ目は、日本という国や国民というものが一つになったということです。
というのは、中世における応仁の乱、そして戦国時代になるまで、だいたい日本は、東国と西国、つまり東と西というのが別の世界だったのです。
―― 東と西が別の世界だったのですね。
山内 別の世界だったのです。それが、応仁の乱から戦国時代ということで、秩序が崩れていきました。これは、下剋上という悪い言葉も使われますけれども。人間の往来、これは公家から商人、一般民衆、つまり庶民に至るまで、東と西を往復旅行、あるいは避難、難民化、こういった流動化が始まったわけです。それで西の経済や西の人びとと東の経済・東の人びとなどが、行き来するようになったり、移住したりしていく。これとともに日本というのは、名実ともに一つになったというわけです。
ですから、一つの国、一つの国民としての日本と日本人、仮にそう読んでおくとすれば、それが実体的に成立したのは、それはやっぱり家康によるものです。応仁の乱による混乱をも克服する中で、江戸時代が成立していく、徳川幕府が成立していく。そのプロセスで起きたということになります。
この二つとも、つまり平和と統治という、理念と現実。この重要な日本政治にとっていつの時代も大事にしなくてはいけない要素と、おそらくこれは経済的な繁栄というものになるわけだけれども、二つ目には、一つの国、一つの国民としての日本というものを作り上げていったこと。これは現代にまでつながっていく家康の功績の基本です。
●リーダーとして成功していく条件~偶然と幸運~
―― 彼はどうしてそういう形のことができたというか、そういう理想を掲げることができたのでしょうか。
山内 これはやはり、いわゆる偉人とか、それからリーダーというものが成功していく条件は、いくつかあるのです。どんなに優秀な人間や、天才的な人間でも、実はその一人だけによって何かが果たされるということはないわけです。そこで家康の場合は、よく有名な、織田信長、豊臣秀吉、そして家康という、この時系列の中で家康が最後に日本の統治と統一を担うことになったという偶然性、そういうある種の幸運というようなものがあります。政治家やリーダーには、そういう偶然と幸運というものが付きまとうわけです、成功者というものには。
例えば信長は、天下統一に向けて努力しましたけれども、非常に才能があったけれども、基本的に彼はやはり暴虐な人でした。非常に乱暴な人であったと。ですから人望を得られなかった、結果として。臣下の明智光秀に暗殺されるというのは、まさにその象徴です。自分の側近や臣下によって、反乱、背かれるというのは、やはり最終的にいえば、勝利者として統治に成功するという、そういう器ではなかったということなのです。
小説の世界は何とでも信長を面白く書けるけれども、実際の政治ではそれは必ずしもプラスばかりではない。保守主義とか、ある種のよどみ、あるいは膿が溜まった、そういう世界を快刀乱麻で切っていくという、こういう面白さというのはあります。しかし、これはいわば、小説の世界なのです。
―― 小説の世界ですね。
山内 ええ、私に言わせると。それで、秀吉も同じでして。秀吉は、いわばある種の自己上昇を遂げた人として、まさに応仁の乱、戦国時代を生き抜いた人間として、ある意味では理想的に見られがちです。確かにそうです。しかし、世には成り上がりという言葉があるのだけども、そういう幸運や歴史の偶然を、あるところまではそれを非常にうまく活用して、人望もあったわけだし、人を集めることができた。つまり日本という国をまとめ上げたということができました。しかし最終的に彼は、自分のそうい...