●日本賛美ではなく警告だった『Japan as Number One』
前回はシリコンバレーの情景をお伝えしましたが、今回からはいよいよ皆さんと一緒に、シリコンバレーがどうしてこうなったかという歴史について考えてみたいです。
シリコンバレーが世界の半導体の製造基地だったことは(第1話で)お話ししましたが、戦前はめぼしい産業はなく、第二次大戦中に軍需産業が立地するようになっていました。1960~70年代、世界中で半導体産業が非常に発達した頃に、スタンフォード大学を中核としてITベンチャー企業が集積していきます。そうした半導体生産とITの集積を指して「シリコンバレー」と呼ばれるようになったのだそうです。
同時にその頃、日本の産業が大変な高度成長を遂げます。1960年代の日本は年率平均10パーセントで成長していて、高度成長の真っ最中でした。その後も日本はどんどん高度化していって、80年代にはアメリカを脅かすような工業国になったわけです。
その頃(1979年)、エズラ・ヴォーゲル氏が『Japan as Number One』という本を書きます。日本の人は、これを「日本が世界一だ」だと思い込み、「Japan is」と言ってしまいますが、実は「as Number One」です。つまり、「もし日本が世界のトップだったら、アメリカ人はどうするのか」という警告の本であるわけです。
ありとあらゆるところで日本が先に行きそうだが、どうするのかという本であり、まさに当時の状況を表しています。
●驚異の発展を遂げた日本が起こした「半導体摩擦」
いろいろな経済の連関が見える産業連関表をたどると、日本は驚異の発展を遂げています。例えば消費財でいうと、日本はもともと絹織物から始まり綿織物になるような、産業革命の初期のようなことをずっとやっていました。それがやがて白物家電をつくるようになり、テレビで力を持っていく。これが消費財の流れです。
しかし、生産材はさらにめざましいです。戦後の日本は焼野原ですが、まず九州の炭鉱を深掘りして得た石炭を原料に、鉄鋼産業を起こしていきます。それで鉄鋼産業が発達すると、造船ができる。造船は大雑把な機械ですが、その精度がもう少し高くなると、工作機械をつくる。工作機械は産業の母ですから、そこから自動車産業が強くなっていく。それが電子化するとコンピュータで、とうとうさらに上流にある半導体まで手掛けるということになったわけです。
アメリカ人は、いくらなんでも日本のような焼野原から急に伸びた国が、まさか自分たちの得意中の得意である半導体に進出してくるとは思わなかったというのが率直な感じだったようです。想像を超えたということです。
ですから、日本が強くなったときに「半導体摩擦」が起きたわけです。1978年に福田赳夫首相が訪米したときには、アメリカの半導体メーカーがいっせいに「日本はけしからん」と苦情を申し立てました。「参入障壁がある」「政府が補助を行っているではないか」「流通システムに大問題がある」ということを直接、首相に呈したのです。そのあたりから、日米半導体がそうとうなことになっているというのが表面化したわけです。それ以降、アメリカの日本に対する産業政策批判は強烈になりました。今の中国批判とよく似ています。
アメリカの国内法に「通商法301条」というのがありますが、これをもとに日本企業を提訴すると言い出し、ダンピング提訴が相次いでいきます。アメリカにとって日本の半導体が脅威になってきたのは、アメリカのハイテク・防衛産業の基礎が崩される、安全保障上の問題だということです。
301条は安全保障上の脅威を持つ相手を制裁していいという法律ですが、それをかざしてやる。2、3年ほど前にトランプ氏が散々これを中国に適用しましたが、最初にやられたのは日本です。
●ロスオリンピック前後の半導体市場と日米事情
この当時、世界の半導体市場を牽引していた需要側の産業があります。パソコンやワープロなどのオフィスオートメーション機器です。搭載していたのは16Kや64KのDRAM(ダイナミック・ランダム・アクセス・メモリー)で、今から見ると大したことはないのですが、当時は最先端でした。それからビデオデッキやCDプレーヤーなどの集積回路も、だんだん高度になっていきます。
日本の大手半導体メーカー30社の売上が当時で2兆円ですから、すごいものでした。(今でいえば)何十兆円です。特にNEC、東芝、富士通、日立、三菱電機などがトップになり、年率30~50パーセントの勢いで増産していきました。それで、アメリカの半導体メーカーがどんどん食われてしまいました。