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第10代・家治から第11代・家斉へ…松平定信と老中たち

徳川将軍と江戸幕府の軌跡~家重、家治、家斉編(5)家斉の時代と老中の存在

情報・テキスト
徳川家斉
出典:Wikimedia Commons
徳川の治世は、優秀な老中によって支えられていた。第10代将軍・徳川家治が死去し、天明7年(1787年)に第11代・家斉が就任すると、松平定信が老中に就任して、寛政の改革が始まるが、松平定信は寛政5年(1793年)に失脚。その後、松平信明、戸田氏教、水野忠成らが、50年に及んだ家斉の時代を支えていく。(全5話中5話)
※インタビュアー:神藏孝之(テンミニッツTV論説主幹)
時間:07:01
収録日:2020/12/14
追加日:2022/02/12
タグ:
≪全文≫

●田沼意次と松平定信という優秀な政治家が続いた日本のダイナミズム


山内 われわれは、自然災害の恐ろしさや、自然に対する恐れを持たなければいけません。なぜかといえば、歴史の偶然性の中でも一番厳しいのが、自然災害の偶然性だからです。とくに江戸時代においてはそうでした。

 田沼意次は難しい時期に、彼なりの優先順序をつけて事業を行ったのです。それがしかし、不幸な歴史の偶然性などに左右されて失敗した。もっと不幸だったのは、彼の政治戦略、外交戦略の選択の中で、開国あるいは対露関係の開幕まで射程に置いた対外政策や外交ビジョン、そういった彼のスケールの大きさというものが、決してすぐには理解されなかったことです。

 この2つが結局、彼の「賂(まいない)政治」といわれる汚職、疑獄、贈収賄を多様化したとされます。これについても、かなり作られている部分が大きいのですが。政治的敗者は勝者によって断罪されていくし、敗者は情報を操作されています。先ほどの話ではありませんが、情報を加工されるのです。

 田沼意次と松平定信を比較していくと、なかなか面白いと思います。

 では松平定信はまったく凡庸な政治家だったかというと、そんなことはありません。問題は、資質の違う政治家が2人、相次いで出たということです。逆にいうと、日本の政治の魅力やダイナミクスはそういうところにあるわけでしょう。

―― 確かにそうですね。相次いで出るわけです。田沼がいなくなっても、すぐ出られるような人がいたことがすごいですよね。


●徳川が輝いていたのは在職50年、徳川家斉の時代


山内 そして、その定信が仕えた徳川家斉という将軍について、実は定信自身は5年ほどしか将軍補佐職として老中をしなかったという悲劇もあります。ところが家斉の在職年数は約50年、半世紀近くにわたって最高権力者でした。江戸時代から現代にいたるまで、このような人間がいるでしょうか。

―― 1787年から1837年とはすごいですよね。

山内 すごいことです。大変な長寿家であったと同時に、政治家として希有の経験をしました。定信という大変優秀な老中を得た。

 また家斉は大奥で遊興を重ねていたというイメージを持たれがちですが、本当に遊興だけでこれだけの長期間、治世がもったのかということも、きちんとフェアに見なければいけません。政治と遊興をこれほどエンジョイした人間も珍しいのではないかという観点です。彼について面白いのは、『徳川実記』という正史の中で「遊王」という表現を使われていることです。

―― 遊びの王、面白いですね。

山内 これは実に本質を捉えているけれども、この「遊王」を必ずしも悪い意味で捉えていないのが面白いところです。幕末に徳川慶喜で徳川が瓦解しますが、瓦解した人間たちが振り返って「ああ、あの時代は徳川が栄えていて良かった」と理想とする時代、懐古する時代は、家斉の時代なのです。「あの時期は徳川が輝いていた」というのです。

―― まさに文化文政で、一番江戸の文化が良かった時もこの時代ですね。

山内 というように後世、懐古される要素もあった。しかし政治史の側から見たり、われわれのような徳川初期から大局的に見たりする人間たちからすれば、家斉は果たしてそう言える人間かどうか。それが非常に面白いのです。

―― しかし、50年も続くのは極めて強運の人ですよね。

山内 強運ですよ。政治家にとって、なんといっても運が大事です。どの首相であっても最終的には運です。だから、家斉にあやかりたいと思う人間はたくさんいるのではないでしょうか。

―― そうですよね。50年も継続し、江戸時代で一番いい時代だといわれる。しかも松平定信も使うし、田沼意次派の水野老中も使うと。

山内 水野忠成と松平定信は比較されて、忠成が非常に悪い臣下のように捉えられがちです。実際そういった人間ではあります。ですが、やはり政治家としては凡庸ではなかった面もあるのです。その間、松平信明、戸田氏教という政治家が老中をやっても目立たない。忠成を含め、この2人が当時危機的になった日露関係の収拾にあたっていくのです。

 対露関係をどうするかなど懸案はいろいろとあったのです。ロシア軍の軍艦が択捉島にやってきて、10年かけて経営した江戸幕府の陣屋や番所を壊した。それから戦闘行為に入っていくので、事実上戦争に入ったのです。私は択捉の日露戦争、あるいはオホーツクの日露戦争と呼んでも構わないと思っていますが、そういうものに本格的に発展する可能性(危機)があった。これを収拾したのは家斉の時代です。

 だから、家斉という将軍とそのときの老中たちを、もう1回見ることも大事なのです。松平信明と戸田氏教は無視され...
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