●兼愛による非攻を実現する「尚賢」と「節用」
田口 そのため(「兼愛論」の実現)にはどうしたらいいかというと、賢い人間がたくさんいなければいけない。賢い人間とは何でしょう。頭がいいというのではありません。前回お話しした論法に則り、その通りに主張できる人が、国家のトップ、会社のトップ、グループのトップにいることが重要です。これを「尚賢」といいます。
これは「高い賢者」という意味で、「尚賢論」という章も(『墨子』には)ちゃんとあり、「尚賢とはどういう人か」が説かれています。
(『墨子』には)天も神も出てきます。ただ、われわれがそれに則って生きるべきだというと、運命論になってしまうが、それは違う。これを否定する概念を「非命」といいます。「定命」はない、つまり宿命も運命もこの世にはない、と彼は言うわけです。人間はひたすら努力をもって生きなければならない。(賢さなどの)高い低いは努力で決まるのであり、そうなる宿命や運命があるわけではないといいます。
そうなってくることで、節約の大切さが浮かび上がります。これは「節用」です。
―― 節約ですね。
田口 そして、特に「節葬」ということをいうわけです。当時は、目上の人が亡くなると、周囲の者が一緒に亡くなったりしたこともありました。そういうことはよくない。また、亡くなった人をきちんと手厚く葬るのはいいけれども、やり過ぎはよくないといいます。
―― なるほど。やり過ぎはよくないのですね。
田口 節度がなければいけないといっています。
そのように、あれに対してはこれ、それに対してはこれという論法がある。「ああくれば、こう返す」ではありませんが、骨格から細部に至るまで、全て完璧に人を説得できる非攻論になっているのです。
―― それはすごいことですね。
田口 まず防備です。彼は戦ってはいけないと言いますから、もう防備しかない。防衛は認めているわけです。
―― なるほど。
田口 ソフトパワーとしての防備というものが、これだけ論理的に成り立っているということが、まず一つ。国家の防衛には論理的なものが重要なのです。反論を凌駕するような論法を、十重二十重に用意しておかなければなりません。
●科学技術を駆使して防衛を徹底
田口 今、中国へ行って、墨子の本名である墨テキの名前を出すと、みんな「あの科学技術の祖ですか」といいます。
彼は優れた技術者だったので、科学技術を駆使した防衛論を展開しました。これでもか、これでもかというほど安全を徹底して、攻撃する側が「もう疲れたからやめよう」と諦めて帰るほどの非常に高い防衛技術を持っていたわけです。
―― なるほど。
田口 さらに目覚しかったのは、それを実践できる軍隊を持っていたことです。ですから、どこかの小さい国が大国に攻められ凌駕されようとしていると聞けば、(墨家には)名うての技術集団が控えているので、彼らが技術の限りを尽くした兵器を持ち、そういう小国へ急行して援助する。要するに援軍に行ったということです。
そうすると、攻撃してきた大国のほうが攻めあぐねてしまう。「どうやって、これを攻めようか」と悩んでいる間は、他の大国から見ると、餌食にしやすいわけです。
(敵は)「しまった」、(こちらは)「しめた」というところです。大国の軍隊がこれだけここに遠征してきている間、本国は手薄になっているはずだから、本国へ攻めていく。そのような、食うか食われるかのときでしたから、少しでも戦争が長引いてしまうと、「もうこれは駄目だ」と言って、すぐに撤退してしまうわけです。
つまり、戦争によって領土を広げるのは得策でないということを、実践によって分からせていく。
―― なるほど。
●純粋な「知的したたかさ」と徹底した防備
田口 論法もあれば、そういう実践もある。ソフトも完璧、ハードも完璧になっているわけです。私はそれを知って、これほどすごいことはないと思いました。これをどのように表したらいいかといろいろ考えてみましたが、結局一つの言葉しかありません。それは、「知的したたかさ」です。
―― 「知的したたかさ」なのですね。
田口 ええ、「知的したたかさ」。さらにいえば、どんなに反論を食らおうとも非攻を説いていくという超人的純粋さがあります。
―― 超人的なのですね、なるほど。
田口 恐ろしく純粋でピュアです。そういうものでした。そのピュアさというのは、防衛については「われわれは戦わない」という意思をはっきり打ち出した上で、徹底的に防備はするというピュアさです。
平和論をいうのなら、そのようなものがなければいけないし、徹底的に防備ができるだけの先端的な軍事力がなければいけない。この二つです。誰にも負けない純粋性と知的したたかさによ...