●日本が持っている森林山岳性の特性の一つは神の発見
さらに、日本の特性を少し申し上げておきたいと思います。
「日本はどのような国ですか」と聞かれたとき、答え方としては、いろいろな観点があると思うのです。ですから、人によって日本の紹介の仕方は全く変わります。
そこで、一番中庸な日本の紹介の仕方には何があるのだろうかと考えた場合に、私は、地理的特性があると思うのです。地理的には、日本の土地、場所を変えることはできません。したがって、誰が考えても、日本の位置づけに異議は生じないと思うのです。
そこで、日本の地理的特性として、今日挙げたい点が二つあります。一つは、森林山岳海洋島国国家という地理的特性です。これを全部説明すると非常に時間がかかりますので、その中から、今日は、森林山岳性を取り上げてみたいと思います。
日本が持っている森林山岳性という特性として、二つ挙げることができます。一つは、ずばり神の発見です。これは、自然の力と言ってもいいのですが、森林の奥底には人智を超えた大きな力があり、「そこには何か意思がある」ということです。そして、その「何か意思がある」存在が神になっていくのです。これは、「クマ」という言葉が変換を繰り返して、「カミ(神)」という言葉に変わっていくことにも表れているのですが、この神信仰が、まず特性の一つとして挙げられます。
●森林山岳性の神の発見からくる日本の特性は鋭い感性と深い精神性
さて、この神信仰は、何を生んだのでしょうか。
日本は、皆さまがよくご存知の通り、多神教の地域です。世界広しと言えども、多神教の地域は存外少ないのです。代表的な地域を挙げると、3カ所あり、それは、ギリシャ、インド、それから、日本です。これだけでも日本の特性として挙げられると思うのですが、さらに言えば、他の2カ所と日本の多神教には全く違うところがあるのです。多神教といってもそれぞれ神があるわけですから、「これが神です」と提示できなければ、その神信仰を受け入れる方は何が神だか分からないわけです。したがって、どこが違うかというと、他の2カ所、例えば、ギリシャには、アポロンの像やゼウスの像など、要するに神の像があり、「神を示してくれ」と言われれば、「これだ」と言って見せられるのです。インドにも、クリシュナ神といった神の像があります。
一方、日本はどうでしょうか。仏像が日本に入ってくるまで、神の像はなかったのです。神の像がないというのはどういうことかというと、それに代わるご神体は全て自然であったということです。ですから、宗像大社のような古いお社に行って、「こちらのご神体は?」とお伺いすると、「あの沖ノ島がご神体です」とか、「あの山がご神体です」とか、皆自然をご神体だと言うのです。
自然を神だと思って信仰することは、それを受け入れる方に鋭い感性と深い精神性がなければ、成り立つ話ではないと思うのです。
したがって、森林山岳性の神の発見からくる日本の、あるいは、日本人の特性としてまず挙げられるのは、鋭い感性と深い精神性なのです。
諸外国の方と巡り合って、いろいろなお話をするのですが、日本人の鋭い感性と深い精神性は、やはり特筆すべきことではないかと思うのです。
さらに、「神道は宗教ですか」と言われると、宗教の条件を満たしているとは言えません。宗教とは、教祖がいること、経典があること、他の宗教を排撃することがその条件となっているのですが、神道には、まず教祖が存在しません。しかし、経典としての「祝詞があるではないか」と言われるのですが、あれは霊を降ろす降霊の術で、教典である典拠ではないのです。さらに、他の宗教に対しては、全てに「どうぞ入っていらっしゃい」と、どちらかと言うとあいまいな立ち位置なのですが、その関係性が成り立っているのです。それは、今も続いていて、それこそどこへ行ったとしても神社があります。
ですから、そういうものが何千年も成り立ってきたのは、見えないものを見ていくとか、見えないものと共生するという姿勢、すなわち、鋭い感性と深い精神性がなければ、成り立つ話ではないのです。
●清明心が日本のリーダーに欠くべからざる条件として存在
さらにもう一つ、森林山岳性から得られた特性があります。
日本の森林は、ブナの木に代表されるように、水瓶と表すことができるのです。ブナの木は、半径200メートルほどの中に樹木のための水が全部蓄えられているのです。それほど、日本は非常に水が豊富だということです。さらに、山岳地帯に森林がありますから、川は全て急流です。
したがって、水は全て清く澄み切っているのです。その澄み切っている水に、太陽がすっと当たるとどうなるのかというと、俗に言うレンズの...