●四書五経教育は江戸期の類いまれなる幼年教育
私は、この47年間ひたすら中国古典思想を読んできただけの人間ですが、その半ばで四書五経が江戸の幼年教育のテキストであると気付いてからは、その哲学、真理を追究するという意味でずっと四書五経を読んでいると同時に、教育という観点から教科書として読んでいくことも併せてやっています。
その結果、今とても痛感しているのは、江戸期の幼年教育、特に四書五経教育が非常に類いまれなる教育であるということです。
●維新の志士を育てた四書五経に、人物育成という教育の本願を見る
全国津々浦々、今と同じ6歳で寺子屋、あるいは、藩校に入り、『大学』から始まる四書を修めて、さらに五経を進めます。その前に、チャンスがあれば3歳で素読を行うわけです。
そういう教育を受けてきた人たちが、ご承知の通りに、幕末において内憂外患の最大の国難というときに全国から輩出され、まれにみる短期間で、近代的な装備を誇った武力を引っ提げて攻め寄せる西洋列強の力を排除し、さらに幕藩体制が揺らいでいるという内患を突破して、近代国家を成立させました。その礎として、維新の志士たちの働きがあったのです。
その人たちがどのような教育を受けたのかと尋ねたとき、幼年教育のすごさを知ると、そこに立派な人物を育成する教育の本願が非常にうまく語られているのではないかと思えてならないのです。
そこで今日は、江戸の教育、特に幼年教育の要点について、少々述べてみたいと思います。
●江戸期の幼年教育を知るために『大学』を実際に読む
しかし、私のようにひたすら漢文を読むことを日常の仕事としているような人間でないと、テキストを読むのはなかなか厄介なことです。ですから、教育を探究されている方々も、江戸時代のテキスト自体をお読みになっているのかどうかという問題があります。
その教育の内容を知るとき、いかなるテキスト、教科書を使って教育が展開されていたのか、その教科書には何が記されていたのかが詳細に分かりませんと、その教育の要点はおぼつかなくなってくるのではないかと思われます。
6歳で寺子屋に入り、最初に四書五経の『大学』から習うわけですが、今回は、『大学』の冒頭部分を読んで解釈をしていきたいと思います。それによって、江戸期の幼年教育が何を重視していたのか、あるいは、どういう順番で何を教えていったのか、ご理解いただいたらと思っている次第です。
●大学とは「人間にとって最も学ぶべきこと」
それでは、『大学』へ入りましょう。『大学』の表紙を開きますと、次の文章から成り立っています。
「大學の道は、明徳を明かにするに在り。」
『大学』をはじめとする四書には、現在非常にいい英訳書が数多くあり、英語圏の方も精通していらっしゃる方が多くなってきました。そういった中で、『大学』がどのように英文で訳されているかと言えば、「グレートラーニング」だというのです。グレートラーニングとは、大いなる学び、つまり、「人間にとって最も学ぶべきこと」なのでしょう。
●江戸期の親が家庭で説いたのは「孤立をしてはいけない」
「大學の道」とは、明徳を明らかにすることなのです。「明らかな徳」という、この「徳」はどういうものなのか。そのことをお話ししましょう。
江戸の親が自分の子どもの姿で一番見たくないのは、言ってみれば村八分になっているところで、要するに、皆に相手にされず孤立しているところを見るのが最もつらいのです。そのような状態で成長し社会人になったらどうなるのだろうと思うばかりです。
そこで、江戸の親が、『大学』を読む6歳(今で言えば小学一年生)になる前の家庭教育で諄々と説いたことがあります。それは、「社会は誰と誰から出来ているのか」という質問でした。
社会は、「自分とその他大勢」、つまり「自己と他者からできている」と答えます。そうすると、今度は「自己とは何人か」と尋ねます。当然のことながら、「自己は一人で、その他大勢」と答えます。そこで、「自己は一人とは、何を意味しているのか」と重ねて尋ねていきます。このやり取りは、一人とは自己中心になった途端に孤立する、一人きりになってしまうことだと教えているのです。
つまり、社会人になるかなり前から、社会人としての心得、つまり、この世で仕事をし、良い家庭をつくっていくための最大のポイントとして、孤立してはいけないことをまず教えているのです。
●孤立と自己中心を戒めるため「徳」という文字を忘れないことが非常に重要
次に、「嫌いな人、付き合いたくない人はどういう人か」と質問します。大方の人が「自分勝手で自分中心で、何でも自分の利益を優先する人」と答えます。つまり、自分の利益のために多く...