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東郷平八郎にはあったが、山本五十六に欠けていたもの

本当のことがわかる昭和史《1》誰が東アジアに戦乱を呼び込んだのか(12)ガダルカナルに大和は出撃しなかった

渡部昇一
上智大学名誉教授
情報・テキスト
東郷平八郎
近代日本人の肖像
1941年12月、当時世界最大の戦艦である「大和」が就役したが、その居住性は「大和ホテル」と揶揄されるほどすこぶる良好で、連合艦隊司令長官・山本五十六大将は、この大和に乗船してから変節してしまったのではないかとさえ思われる。上智大学名誉教授・渡部昇一氏によるシリーズ「本当のことがわかる昭和史」第一章・第12話。
時間:03:54
収録日:2014/11/17
追加日:2015/08/13
≪全文≫
 山本大将の話に戻ると、真珠湾攻撃から数えて8日後にあたる昭和16年(1941)12月16日に、当時世界最大の戦艦である大和が就役している。大和は、それまで連合艦隊旗艦だった戦艦長門とは桁違いに大きく、居住性も良好だった。冷暖房完備で、エレベーターやラムネ製造機、アイスクリーム製造機まであったことから、「大和ホテル」ともいわれていた。食事には洋食のフルコースも出て、司令長官ともなると、食事のときには軍楽隊が音楽を演奏していた。

 もっと面白いのは、大和は呉海軍工敞で建造されたが、同型艦の武蔵は民間工場である三菱重工の長崎造船所でつくられ、昭和17年(1942)8月に海軍に引き渡されている。同造船所は民間船を数多くつくっていたので、同じ設計でも武蔵のほうが大和よりも居住性が高かった。加えて旗艦施設も充実していたため、昭和18年(1943)2月11日にトラック島で連合艦隊旗艦が大和から武蔵に変更され、山本大将は武蔵に乗艦している。

 彼は真珠湾でもミッドウェーでも「指揮官先頭」という海軍の伝統を無視し、自らの身は後方に置いていた。ガダルカナルでも、彼が先頭に立って出撃することはなかった。武蔵でも大和でも構わない、日本軍が苦闘していたガダルカナルに、なぜ出撃しなかったのか、と思わずにはいられない。

 いまではよくわかっていることだが、当時のアメリカ海軍の魚雷はあまり性能が良くなかったので、戦艦大和を沈める力はなかった。魚雷が命中しても爆発しないことが少なくなく、輸送船が帰還して入港したらアメリカの魚雷が刺さっていたということもあった。アメリカの魚雷の性能が格段に向上したのは、そのあとのことである。

 日露戦争で日本の勝利を決定づけた日本海海戦に勝利した、時の連合艦隊司令長官・東郷平八郎大将は、同海戦に加えて黄海海戦や旅順攻略戦でも、その前の幕府軍との戦いでも戦場に出ていた。なぜ山本長官にその気概がなかったのか、と嘆息せざるをえない。戦艦大和に乗ってから、山本長官は別人になってしまったのではないかとさえ思う。

 このような事例を知るにつけ、なんとも残念な気持ちがこみ上げてきて、日本は本気で戦争をしていたのか、疑いたくなる。ああ、当時の将官にもっと「ガッツ」があればと、あまりの慨嘆に天を仰ぎたくなるのである。
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