神藏孝之

激変する状況の中で

1.私とイマジニア

2度のピンチをチャンスに変えて克服、「経営の神様」の教えを心に留めて
  1. はじめに
  2. 政経塾入塾から会社設立まで
  3. 1度目のピンチ~会社設立2年目で10億の損失~
  4. 「株式必勝学」がヒット、10億を取り戻す
  5. 「シムシティ」が大ヒット、株式公開へ
  6. 「誰と出会うか」が大事
  7. 2度目のピンチ~事業の変革を社員に伝える大変さ~
  8. 松下幸之助の教え~「天分」を活かす~
  9. 経営とは駅伝~誰かにたすきを渡すために~

1.はじめに

 1986年、私は30歳でイマジニア株式会社を起業し、創業10年目の40歳のときに同社は上場を果たした。「10年間売り上げがなくてもつぶれない会社にしよう」と、盤石な基盤を築くことを当初の目標に据え、無借金経営を続け、従業員1人当たりの現預金は1億円、同じく営業利益は1千万円で、今日まで事業を進めてきた。今振り返ると、会社設立から上場までが最も苦労の多かった時期であった。まずはその辺りから話を進めていきたい。

2.政経塾入塾から会社設立まで

  1980年、私は早稲田大学を卒業した。もともとは政治家を志し、在学中、政治家の登竜門である「早大雄弁会」にも所属していたが、まずは社会というものを知らなければと考え、トヨタに就職することにした。当時はまだ終身雇用が前提の時代。トヨタが工販合併前のトヨタ自販に入社したため、周囲からは「いいところに入社したね」といわれたものである。

 ところが、研修が終わって配属先に戻ったとき、職場の上司や先輩の働く姿を見て、「たとえ10年たって課長になったとしても、しょせん自分の席が10メートルほど動くにすぎない」と、サラリーマン人生の行く末が見えてしまったように感じた。また、幼い頃から偉人伝を読みあさり、「自分の人生は自分で決めたい」と考えてきたが、そもそも「上司がいる」という状況はいかがなものか? という疑問にも苛(さいな)まれた。まだ若かった私は、「1度しかない人生、政治家になるか、自ら事業を起こして経営者になるか、いずれかをやり遂げたい」との思いを強くし、1981年、松下政経塾の門をたたく。そこで、松下幸之助と出会ったのである。

神藏孝之(右)が松下政経塾塾生時代に知遇を受け、「経営の師」の一人として仰ぐミサワホーム創業者・三澤千代治氏(左)

3.1度目のピンチ~会社設立2年目で10億の損失~

 会社を設立した1986年から90年にかけては、プラザ合意のあとで日本ではバブル真っ盛りの時代に突入していた。任天堂のゲームソフトやPC-88用ソフトなどが出始めた頃だったが、当時パッケージソフトウエアの会社はほとんどなかった。そこで、当社はゲームソフトの商売を行なうことに決め、初年度から2000万円ほど利益を計上することができた。「初年度で利益が2000万円出るのなら、2年目にソフトを今の10倍つくれば、当然2億円、3億円と利益を上げることができるのではないか」ということで、メインバンクを中心に資金を借り入れ、開発ラインを10倍に増やした。当時ソフトウエアを開発できる人材は少なかったが、プログラマーやプロデューサーを募って商売を拡大していったのだ。

 結果として、1年目の10倍働いたが2年目の決算は5億5000万円もの損失を計上、不良在庫等もおよそ5億円に膨れ上がり、資本金1億円の会社がなんと10億円のマイナスを出してしまった。

 真面目に働いていたのに、なぜこんな事態に陥ってしまったのか。

 当時、任天堂はファミリーコンピュータの拡張機器として「ディスクシステム」をリリースしていた。フロッピーディスクを入れてゲームするという仕様で、市場にはすでに数百万台が流通していた。そのため、当社は「ディスクシステム」への注力を決め、販売促進としてTVCMの準備を進めていた。

 だが、この「ディスクシステム」のソフトを不正コピーする方法を公開する人が出てきたり、プロテクトを外す書き換え業者が現われたりした結果、模造品や不正コピーが広く出回る事態になってしまう。このようなこともあって、当社の準備がようやく終わり、いよいよと思った矢先に、発売予定だったゲームソフトの販売中止を任天堂から正式に告げられたのである。

 「こんな理不尽なことが世の中にあるのだろうか」と、私は愕然(がくぜん)とした。当社の10本の開発ラインはプラットホームを失うことになり、ことごとく討ち死にとなった。これによって、当社は大きな損失を抱えることとなったのである。

 だが私には当時、経営知識も財務知識もなかった。逆にそれが幸いした。今の私なら、資本金1億円の会社で預金がなく、PL(損益計算書)上の損失が5億円、含み損が5億円であれば、事業の継続を諦め、その時点でやめていたかもしれない。けれども、当時の私は、何とも思わなかった。今考えてみれば、ここが大事なところである。

4.「株式必勝学」がヒット、10億を取り戻す

 10億円ものマイナスを出し、1度は気落ちしたが、その後「株式必勝学」というソフトをリリースして一気に盛り返していくことになる。

 当時、ゲームソフトは子ども向けのものばかりだったが、実は大人も結構遊んでいた。一方、1987年にNTTが株式公開したことで世間では株式ブームが到来していた時期でもあった。この機をチャンスと捉え、大人をターゲットとした株式投資シミュレーションソフト「株式必勝学」を開発、他のソフトの定価が通常1本4800円だったところを9800円で販売した。これを30万本ほど売り上げ、粗利は10億円となった。

 この成功により、ほぼ1年で借金を返すことができたのだ。安堵(あんど)したのは当社に資金を貸し付けていたメインバンクも同じだが、支店長はまるで何事もなかったかのように振る舞って見せた。1980年代後半の熱気は今とまったく違い、強気に推し進める空気感があったことも確かだが、「失敗しても何とかなる」というところがあった。当時の日本には骨のある人物が多く、困難にぶち当たっても切り抜けていく根性があった。

「松本亨の株式必勝学」(1988年発売。キャラクターデザインは山科けいすけ氏。※画像はAmazonより

5.「シムシティ」が大ヒット、株式公開へ

 「株式必勝学」の成功ののち、「シムシティ」という都市計画のシミュレーションゲームが当社の看板ソフトとなり、株式公開への原動力となっていく。

 1980年代後半当時、「ベンチャー」という言葉はまだ使われていなかったが、アメリカの西海岸にそれらしいソフトウエアの会社があるというニュースがちらほらと流れ始めていた。そこで私はアメリカの西海岸へ視察に訪れた。

アメリカ合衆国カリフォルニア州に位置するシリコンバレーの風景

 当時はシリコンバレーを中心としたベンチャー・ビジネスの勃興期で、アップルなどのビルが立ち並んでいた。ユニークで有能な人材が数多く、ハーバード・ロー・スクール出身でもともと弁護士だったが自分で商売をやりたいと起業したブローダーバンドのダグラス・カールストン(ブローダーバンドは、エデュケーションソフトでは最大のシェアを誇った)や、スタンフォード大学でMBAを取得したEA(エレクトロニック・アーツ)のトリップ・ホーキンス、のちにマクシスを創設したジェフ・ブラウンらがいた。

 Eメールがまだなかったため連絡は電話とFAXだったが「東京から来た」と伝えると、すぐに会ってくれて食事をごちそうしてくれた。

 こういう文化がシリコンバレーの原型である。東京では、会えばどういう会社で、肩書は何で、誰と知り合いか、どれくらいもうかっているのかなど、いろいろと聞かれるが、シリコンバレーには最初からそういった習慣がなかった。まさに異文化、まったく別のカルチャーである。
 
 「シムシティ」をつくっていたのは、ブローダーバンドで不良社員だったウィル・ライトという人物である。当時の当社は、提携先を増やすために積極的に投資を行なっていた時期で、10万ドルほど資金に余裕があった。そこで、誰かいないかとダグラス・カールストンに相談したとき、紹介されたのが、以前在籍していた社員でサンフランシスコの山の上にある丸太小屋に住んでいた彼だった。

スーパーファミコン用ソフト「シムシティ2000」(1995年発売) ※パッケージ画像はAmazonより

6.「誰と出会うか」が大事

 やはり「誰と出会うか」ということが非常に重要である。任天堂の山内溥社長(当時)もその1人だ。先の「ファミリーコンピュータ ディスクシステム」の件をはじめ、非常に厳しい試練も数々あった。そこで自身の考えを伝えるため、山内社長の元に伺ったことがある。雪の日に、山内社長のご自宅の前で傘をさしながら3時間ほど待っていると、家の中に迎えられ、お茶を飲ませていただいた。山内社長は「確かにそれはそうだな」とうなずき、それ以来、商売のコツを教えていただくようになった。

 キャラクターマーチャンダイジングのビジネスを教えていただいた先生は、サンリオの辻信太郎社長。サンリオピューロランドにも幾度もうかがったが、1927年生まれの辻社長から、本当に多くの貴重なことを学んだ。

  私の場合、なぜ経営者をやっているのかといえば、それは人と出会えるからである。人に会い、実践しながら勉強できることが何よりも面白い。これがリタイアしたあと何もせず、金があるから遊んでいてもいいかという感じになると、物足りない人生になるだろう。出会いがあり、誰かと何かに取り組む高揚感は何事にも代えがたい財産となる。

 できるだけ多くの人と出会い、いろいろなことをやりたかったので、松下政経塾の一期先輩である野田佳彦氏が内閣総理大臣に就任した折には、総理アドバイザーを引き受けたりもした。

7.2度目のピンチ~事業の変革を社員に伝える大変さ~

 1度目のピンチは、先述の通り、会社設立2年目で10億円の損失を出したときだった。2度目のピンチは、すでにインターネットの時代に突入していた2000年代初頭に訪れる。

 パッケージのラインではまだ利益が出ているにもかかわらず、パッケージソフトウエアからインターネットとモバイルコンテンツビジネスに主軸事業をシフトしなければいけないときのことだ。この二つは同じように見えて、まったく別のビジネスであり、売り切り型ビジネスか継続型ビジネスかによって、最適な組織や運営体制も大きく異なってくる。

 いちばん困ったのは、そのことを社員にどう伝えればよいか、わからなかったことだ。これからはインターネット、i-modeの時代。私の友人でi-modeの生みの親といわれたドコモの夏野剛氏や松永真理氏は「今は100万台だが、翌年には1000万台になる」と、i-modeの爆発的普及を予見していた。私もそう確信していたが、当社ではまだパッケージソフトウエアで利益を上げている。だから、そのことを社員に伝えるのは難しい。

 外部環境と事業領域が変わろうとしているとき、そのことに最初に気づき、現業をそのまま続けていていいのか判断を迫られるのは経営者である。背負っているものが重く大きいため、真剣味がまったく違う。しかし、すべてを理解してもらうまで待っていては手遅れになる。そこが経営者として最も苦しいところだった。

8.松下幸之助の教え~「天分」を活かす~


 松下幸之助には「天分」に関する話がある。“人間としての成功は自分の「天分」を活かすこと”だというのである。この指摘は、非常に興味深いところである。

 人間はおのおのいろいろな才能を持っている。その「天分」をそれぞれどう活かしていくか。たとえば、音楽のできる子、運動のうまい子、勉強のできる子など、子どもたちは、それぞれの天分を持っている。だが必ずしも、音楽のできる子が運動もできるとはかぎらない。勉強のできる子が運動がうまいともかぎらない。そういう場合どうするか。

 松下幸之助の発想でいえば、音楽のできる子に、運動がうまくなるように無理強いするよりも、運動能力は困らない程度に身につけさせつつ、もっともっと音楽の力を伸ばしていくべきだ、ということになるだろう。

 悪いところを直しても仕方がない。何がいちばん自分に適しているのか、そこを見つけ、活かしていくことが大事なのである。

9.経営とは駅伝~誰かにたすきを渡すために~

 結局、何のために経営者をやっているのか。当社は、私が40歳のときに株式を公開した。資金も増え、無借金経営を続けてくることができた。だが、それだけでいいわけではない。

 経営とは駅伝と同じではないだろうか。世界には、自分の記録を誇示するスポーツが数多く存在する。しかし、駅伝はそうではない。前の走者からたすきを受け継いで自分の区間を走り、また次の人にたすきを渡すスポーツである。

 私は創業者だが、誰かのたすきを受け継いで、次の人にたすきを渡すために走っていると考えている。年収1億円が目標なら達成した時点でおしまいになり、資産10億円を持つことが目標なら、それを成就すればおしまいになるのか。そうではないだろう。自分だけのために生きていては、前には進めない。やはり「誰かにたすきを渡すために」という信念を持つことで、経営も違ってくるのである。

2.松下幸之助塾主に学んだこと

「人情の機微」、「理」と「情」、そして「塾訓」と「五誓」へ

1.「不易流行」〜状況が変わっても大事な部分は絶対に変えない〜

 今、ROE経営とか、どうやってリターン率を上げるかとか、社外取締役が必要とか、そのようなことを強調するアメリカ型経営の重要性が声高に叫ばれているが、それを「そのまま」日本に持ってくることが果たして正しいといえるのだろうか。いろいろと制度を整え、「社外役員も多く迎え入れていました」「四半期決算もやっていました」という優等生のような会社の中からも、粉飾決算を行なってしまうような事例が出てくるのが実情だ。

 なぜそうなってしまったのか。それに対して、松下幸之助の経営は時代の変化とどう向き合ってきたのか。

 松下幸之助が大切にしていたのは、「不易流行」ではないかと思う。「流行」の部分は、日本の置かれている状況の変化である。確かに日本を取り巻く状況は、日々刻々移り変わっていく。しかし、本質、根っこの部分は変わらないはずだ。

 幸之助はその組み立てが非常にうまかったのではないか。状況は変わっても、大事にする部分はまったく変わらない。それこそが松下幸之助の経営であろう。

 明治時代に日本人は「和魂洋才」という言葉を掲げた。西洋の様式、技術、学問などは取り入れる。ただし、日本の魂は失わない。そういう覚悟である。明治の偉大な先人たちは、捨てていい部分と捨ててはいけない部分の取捨選択に長けていた。そうして日露戦争に勝利することができたのだ。

 戦後の日本も1980年代、「Japan as NO.1」といわれ調子に乗ってしまった時代まではうまくやっていたはずである。その後、バブルが崩壊し、虚飾の自信が失われ、足元が崩れたかのように見えたときに、日本人は、本来持っていた強みを忘れてしまった。その辺りがいちばんのポイントではないだろうか。

2.「人情の機微」〜経営にとって何が大事か

 私は20代で松下幸之助と出会ったが、幸之助はこれ以上怖い人に会ったことがないというくらい怖い人だった。松下幸之助が松下政経塾の塾生を叱ったシーンが忘れられない。

「君らは辛酸をなめていない。つまり君らは心眼が開けていないのだ。経営というものについて、心眼が開けていない。だからわからないのだ。人の育て方や人の使い方、お得意先に対しての仕事の仕方、そんなものは(販売店が)全部持っている。猫に小判という言葉があるだろう。猫に小判だったらいけないが、君らはその猫に小判の方だ」

 この言葉は、松下政経塾の塾生たちに対して、松下幸之助が発したものである。松下政経塾では、研修として松下電器(現・パナソニック)の販売店などでの実習が課せられた。塾の1期生、2期生の中には、「なぜ、そんな研修をしなくてはならないのか。自分は政経塾に入ったのであって、松下電器に入社したのではない」と苦々しく思う向きもあった。

 研修の成果を発表する場で、塾生の中のそのような不満や疑問を鋭く察した松下幸之助が、眼光鋭く叱ったのである。販売店には経営の大切な要素があるのに、君たちはそれをつかんでいない。「1年間、寮を与えて、生活の面倒を見て、勉強させたけれども、猫に小判だった」と。

 85歳という老翁が20代の若者に対して、「猫に小判だ」と突きつける。ここに真剣さが現われている。塾生たちが顔面蒼白(そうはく)になり、凍りついたことはいうまでもない。







 松下幸之助とはどんな人物だったのか。幸之助には生涯で3度生まれ変わったという話がある。転機となったのは、松下電器を創業したとき、金融危機の中で住友銀行に救われたとき、そして彼が50歳から55歳のとき、最も不遇の時代といわれる戦後の5年間である。とりわけ、3度目の転機は、幸之助の人生に大きな影響を与えたと思われる。

 戦前の松下電器は、軍の命令で船や飛行機を造ったが、終戦後に軍需補償が打ち切られたため、多額の代金が棚上げされる結果となった。さらに財閥に指定されて財産を差し押さえられ、ついには公職追放されてしまう。最も精力的に活動すべき50代の前半、幸之助は座敷牢に閉じ込められたように身動きができない状態だったのだ。

 この時期の幸之助の出来事に関しては、松下電器の社史の中でもつまびらかには語られていない。

 幸之助は幼少の頃、父親が破産して丁稚奉公(でっちぼうこう)に出される。小学校は4年で中退したため、学歴がない。父母兄弟はみな幸之助が30歳になるまでに肺結核で他界し、本人も身体はとても弱かった。当然、金もない。そんな幸之助がどうして成功への道を駆け上がっていくことができたのか。それはまさに、50歳から55歳の最も不遇な時期、座敷牢に閉じ込められたような状況の中でさまざまなことに深い思索を巡らせていったからである。

 もしも幸之助が50歳のとき、終戦前の大阪で爆弾に当たって命を落としていたら、彼の評価は「大阪で成功した、単なる成金の社長」で終わっていたのかもしれない。しかし戦後、財閥指定と公職追放の中ではい上がってきた頃から、哲学者的風貌へと変わっていく。55歳で松下電器の再創業を宣言したのち、家電ブームと相まって10年もかからず日本一の経営者となり、さらに世界的経営者として『TIME』の表紙を飾ることになる。

 幸之助の成功の裏には、欧米のビジネススクールとはまるで違うやり方がある。それは、ある意味で江戸時代の心学者・石田梅岩の考え方に近い。すべてを実感値として自分自身で考えていくという方法だ。「人情の機微が大事」「嫉妬は黄金色に焼くが良し」といった言葉であったり、相手がどう思っているかを察し、気持ちよく働いてもらうためにはどうしたらいいかを考えて動いたりするなど、ハーバード・ビジネス・スクール流の考え方にも、コーポレートガバナンス・コードにも出てこない教えがある。

 アングロサクソンの文化は歴史として記述する文化であるため、後世に残すことができた。当社では松下政経塾における幸之助の講話映像のデジタル化を進めたが、もっと早くから進めておかなければいけなかったと痛感している。









3.「理」と「情」~盤石の基盤を築いた幸之助の経営哲学~

 経営者稼業においては、人を切らなければならないときや、やむをえずリストラを決断しなければならない状況に直面することがある。仮にミスを犯し大赤字を出した社員に対し、最初は「理」で考えてその人を切る判断をしたとしても、最後に必ず「情」を添える。そして、「理」と「情」の順序を逆にしてはならない。

 松下幸之助は、「あんたは駄目だ。いらない」という言い方は決してしなかった。あたかも庭師が全体を見渡して、はみ出している枝を切ることと同じで、全体の調和からどうしても切らなければならないときには切るのだが、必ず「今までありがとう」という感謝の気持ちを添えたのである。

 しかし、そうした考え方はアメリカ型経営にはない。1980~90年代までの日本にはその考え方は残っていたが、それをなくしたのち、何が起こったのか。そのような心を失ったことが、現状の日本経済の惨状を招いたのではないだろうか。

 「不易流行」の「不易」である根っこの部分は捨ててはいけない。1995年からの20年間で起こったことから考えると、バブルの後処理よりも、捨ててはいけないものを捨てたところが大きいのではないかと思えてならない。



4.「情熱」と「真剣勝負」~85歳の幸之助、本気で叱る~

 当社が運営している知的動画メディア「テンミニッツTV」では、松下政経塾に蓄積されていた松下幸之助の代表的な講話映像を1話10分程度に編集し配信している。その中には松下哲学のエッセンスが凝縮されているが、幸之助がどのように人間というものを捉えているのか、そのポイントとなるシーンがいくつか出てくる。それを見れば、今の時代においても、人として捨ててはいけないものがあることを理解できる。

 松下幸之助の「情熱」と「真剣勝負」というのは、85歳の幸之助が政経塾の塾生である20代の若者を真剣に叱るということだ。それも3、4時間かけて叱る。そんなことをする85歳が世の中にいるだろうか。

 繰り返しになるが、たたき上げの松下幸之助が、幾多の困難を乗り越えてきた過程で培った独自の哲学は、50歳から55歳までの間、座敷牢に閉じ込められるような日々の中での深い思索によって練り上げられたものである。

幸之助が何度も語っていたのは、「商売は成功するようになっている。やり方さえ間違わなければ必ず成功する」「困っても、困ったらいかん」ということであった。「成功とは、成功するまで続けることである」という言葉もある。

 経営者にとって、これほど勇気づけられる言葉はない。一方で、これほど「言うは易く、行なうは難い」言葉はないかもしれない。





5.「塾訓」と「五誓」~幸之助がたどり着いた最後の教え~

 松下幸之助が最後にたどり着いた境地のエッセンスは、松下政経塾の「塾訓」と「五誓」にあるように私は思う。幸之助は、この中に成功の秘訣(ひけつ)をすべて盛り込んでいったのではないだろうか。

 松下政経塾が設立されたのは1979年である。実は、その当時から現在まで「何が重要か」ということは、ほとんど何も変わってはいない。「素直な心」「衆知」「自修自得」等々、これらの中には、今の時代を生き抜くための本質が息づいている。

 私は2015年10月、久方ぶりに英国のオックスフォード大学を訪れた。この大学には、1920年代に創設されたPPE(Philosophy,Politics,Economics)と呼ばれる看板コースがあり、英国をはじめ他国の首相や元首といった政治家、経済学者など多数の著名人を輩出している。PPEでは哲学・政治学・経済学の3つの学問を一体的に学ばせている。

 経営はもとより、国や社会の営みにはそれを支える哲学が不可欠である。近代国家成立以前から存在する欧州の名門校には、決して場当たり的ではない、一国のリーダーを育成するための仕組みが根づいているということだ。

 そうした哲学や歴史観は、幸之助が松下政経塾で伝えたかった「人間観」や「国家経営」といったものにも通ずるものがある。幸之助はそれを真剣に考究し尽くし、「塾訓」と「五誓」に落とし込んだのである。

 幸之助は80歳を過ぎてから、「塾是」を含めた「塾訓」と「五誓」を毎朝ひたすら大きい声で唱え続けたという。これはもう、ほとんど密教の世界だが、逆にいえば、それだけの思いを込めたものであったということであろう。

 今は当社でも、朝礼のときに当番を決めて、この「塾訓」と「五誓」を「社訓・五誓」として社員全員で唱和している。時代錯誤だといわれるかもしれない。だが、激変する時代には、とりわけ行動指針が必要となる。そして、困難に直面し、迷い悩んだとき、「立ち返るべき原点」を自分の中に持つということは、何ものにも代えがたい強みとなるのである。

 人間とは、頭で理解しているだけでは駄目で、いざとなると、身体に染み付かせたものしか役に立たない生き物なのである。松下幸之助が晩年に、自ら考究した言葉を、自ら唱和していた意味を、深く考え、実践したいと考えている。