特別編集委員 橋本五郎
2017/01/14 東京読売新聞 朝刊 11ページ
拝啓 香川俊介様
あなたがお亡くなりになって1年半になろうとしています。昨年12月には財務官僚・香川俊介追悼文集『正義とユーモア』が出版されました。
心のこもった追悼集はその人のすべてを照らすものだとつくづく思いました。官房長官の菅義偉さんはこんなエピソードを明らかにしています。
香川さんが財務次官として消費税の10%再増税に向けて動いていると聞いた菅さんは、あなたを首相官邸に呼んで、静かに諭したといいます。「消費税の引き上げはしない。おまえが引き上げで動くと政局になるから困る。あきらめてくれ」
香川さんはこう答えたそうですね。「長官、決まったことには必ず従います。これまでもそうしてきました。ですが、決まるまではやらせてください」
あなたの人となりを示す、面目躍如たる逸話です。
香川さんは、千葉大学教育学部付属中学校から東京の私立開成高校に入り、東大法学部を卒業、財務省では官房長、主計局長、次官とエリートコースを歩みました。
2012年8月の「社会保障と税の一体改革」に関する3党合意は、官房長としての香川さんの下支えなしにはありえなかったといわれています。その関連法が成立した直後に入院、その後復帰しましたが、次官時代に癌(がん)再発がわかり、最後は車椅子で使命を全うしました。
それにしても、人脈の広さ、深さがこれほどまでとは思ってもみませんでした。財務官僚として身を削るように仕事に打ち込みながら、友とグルメを求め、一緒に旅したことが追悼集に満載されています。
◇
追悼文集発行委員会の代表で30年来の親友である神蔵孝之さん(イマジニア株式会社会長)がそんな香川さんについて語っておられます。
「彼の凄(すご)いところは、政治家たちに一人で突撃していって主張すべきを主張するのに、持ち前の愛嬌(あいきょう)と誠実さで、敵にならないどころか仲良くなってしまうところでした」
「彼は『詭道(きどう)』的な手法を取りませんでした。いつも、まっすぐに、なおかつユーモアを忘れずに仕事に、相手に、ぶつかっていきました。しかも、それは常に正義感、『公の心』に裏打ちされていました」
政治家に対する人脈の濃さは追悼文を寄せた顔ぶれをみても一目瞭然です。麻生太郎、太田昭宏、小沢一郎、小渕優子、古賀誠、菅義偉、園田博之、二階俊博、野田佳彦。それは与野党や主義主張を超えています。
現財務省官房長の岡本薫明さんの文章は限りなく胸を打ちます。香川さんが3年間も過ごされた財務省2階の官房長室にはあなたが好きだった観葉植物も机もソファもその時のまま残っているそうです。そして、こう漏らされているのです。
「病を告げられた後もこの部屋で一人で苦しい思いをされていたのだと思う。人の出入りの少ない部屋に一人でいる時、この同じ光景を香川さんも眺めていたことを思うと胸がつまる」
◇
香川さん、あなたのお母さんは「母の鑑(かがみ)」です。あなたが亡くなる8か月前に他界されましたが、お母さんの周りの人たちは、あなたが東京で役人をしていることは知っていても、財務省の次官だったことは知らなかったそうですね。神蔵さんは書いています。
「お母様にとって香川さんは自慢の息子だったに違いありませんが、そのことを周りにことさらに吹聴することはなかったのです」
香川さんを思う時、「吏道(りどう)」という言葉が浮かんできます。警察官僚から政治家になり、中曽根内閣の官房長官を務めた後藤田正晴さんは、『政と官』(講談社)の中で、役人が一つの政策に固執する「思い上がり」を厳しく戒めています。
「役人は政治に対して政策を押しつけてはならない。政策立案に必要な資料を揃(そろ)え、それらの資料を分析し、政策案を策定する。一つの政策に固執するのは越権行為である。決定するのは政治家である」
その通りだと思います。その一方で、役所に限らずどんな世界でも、いざというときに上司やトップに「諫言(かんげん)」できなければ、その組織はだめになるのではないのか。そのことでたとえにらまれようとも、恐れてはいけないのではないのか。
香川さん、あなたは「諫言」できる「吏道」という道を歩んできたように思われるのです。
2019/03/25 朝日新聞 朝刊 4ページ
どう振る舞うべきか。日本を取り巻く外交・安全保障環境をみると、極めて困難な事態に直面していると最近、ひしひしと感じている。
そんな中で興味深い話を聞いた。「逆境の克服とリーダーの胆力」と題する講演で、松下政経塾副理事長の神蔵孝之・イマジニア会長が「中国が強大な力を誇り、朝鮮半島が政治的に揺らぐ時期は、日本の歴史の変わり目となってきた」と指摘している。
権勢を振るった唐の時代、朝鮮半島は百済や高句麗が滅亡するなど混乱した。それに動じず、「日本は法治国家だ」と国内外に宣言する大宝律令制定に尽力し、平城京への遷都を成し遂げ、「倭」から「日本」への転換を図る戦略を着々と練り上げた藤原不比等に注目すべきだというのだ。
神蔵氏は財政にも言及する。第2次世界大戦で、日本の政府債務残高はGDP(国内総生産)比200%超に跳ね上がった。現在の日本の財政事情はこれをしのぎ、約240%。「1千兆円ほどの国債という幻の果実の下にいながら、私たちに緊張感がない」と警鐘を鳴らした。
*
藤原不比等の時代と同様、中国は経済的にも軍事的にも台頭した。朝鮮半島は北朝鮮の核・ミサイル問題や日韓関係の悪化などで揺れている。さらに、唯一の同盟国として頼ってきた米国は「リベラルな国際秩序形成」を放棄し、米国第一主義にひた走る。
トランプ大統領は、対日貿易が「不平等」だと、来月の日米貿易交渉に手ぐすねを引く。次の駐留米軍経費負担の協議をめぐり、大幅増額を水面下で日本に要求している。
ある外務省幹部は誇張を交えて、日本の今後の選択肢を四つ挙げた。(1)米国に徹底的にこびへつらう(2)中国との関係を重視して尖閣諸島などを手放す(3)防衛費を5倍にする(4)核兵器を保有する――。米国の要求を丸のみし、防衛費の大幅増に踏み切れば、債務はさらに膨らむ。かといって尖閣の放棄や核保有も政治的に極めて困難だ。
省庁の縦割りを解消し、日本の総合的な外交・安保戦略を練るため、2014年に創設したのが、国家安全保障局(NSS)。だが、最近は対ロシア政策で安倍晋三首相とNSS幹部が対立し、不仲説も漏れる。政府関係者は「経済産業省出身の官邸官僚と外務省との相互不信が深刻だ」と明かす。
自民党内から「安倍4選」の声も出始めた。同党議員は「トランプが来年の大統領選で再選されれば、『彼とゴルフできるのは安倍しかいない』と訴えられる」となんとも悠長に語る。
相手の顔色を窺(うかが)い、F35戦闘機の大量購入で対米関係を一時しのぎし、理不尽と思っても物も言えないのが「したたかな外交」なのか。それは「接待ゴルフ」に過ぎない。
米中は安保と経済を絡めた外交を展開する。日本外交のかじ取りが難しい今、政府内の主導権争いにかまける余裕は日本にない。首相には複眼的な戦略を主導する「胆力」をぜひとも見せてほしい。
◇
「政治断簡」は今回で終わります。ご愛読いただき、ありがとうございました。