神藏孝之

激変する状況の中で 1. 私とイマジニア 2. 松下幸之助塾主に学んだこと

『財務官僚・香川俊介追悼文集「正義とユーモア」』-発刊の辞

香川俊介さんを偲んで――発刊の辞

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香川俊介さん追悼文集発行委員会 代表 神藏孝之
 香川俊介さんという、偉大な官僚としての生涯を歩み続けた友人の生き様を、後世に残したい。その思いから、私たちは本書をまとめることにしました。

 直接のきっかけは、香川さんが亡くなる1カ月前に、何気ない会話の中で、彼が語ったこんな言葉でした。
「もし、万が一ということになったら、自分のことをよく知ってくれていて、自分のことを語れる人間が集まってくれるのがいちばんの供養だなあ。自分は写真参加でいいから」

 彼は、「自分は病気に勝つのだ」という強い気持ちを持っていたようでしたし、これらの言葉を語った口調も、あくまでも半ば冗談のようでした。しかしもしかすると、心のどこかに、このことはぜひ伝えたいという思いがあったのかもしれません。

 その言葉がきっかけとなって、2015年10月7日に、彼の友人たちが集まり、「香川俊介さんの思い出を語る会」が開かれました。その場で、友人たちによって語られたエピソードの数々からは、香川さんが人生をかけたもの、そして彼の人生のあり方が、まざまざと甦ってきました。

 私たちの大切な友人であり、誠実に使命感に燃えて生き抜いた日本人であり、稀有な財務官僚であった香川さん。この「語る会」ののち、さらに彼の記録を書籍として残しておこうという機運が盛り上がったのも、自然の流れでした。

 なぜ香川さんは、あれほどのことを成し遂げられたのか。なぜ、多忙を極めていたはずなのに、あんなにつきあいがよくて、気配りができて、友人たちのことを心の底から大切にしてくれたのか――香川さんの見事な人生は、彼と面識のあった私たちの中には、ずっと残っています。しかし、そのような思い出は、長い年月のうちに風化していってしまうでしょうし、香川さんを知らなかった人に伝わることもないでしょう。彼の記録を、ぜひとも追悼集の形で残しておかねばならない。それが私たちの願いです。

 折々のエピソードは、本書に寄稿いただいた皆さんが紹介してくださっていますので、本書の冒頭にあたり、香川さんの人生の全体像について(私が見てきた範囲ではありますが)、ご紹介したいと思います。

 香川さんは、昭和31年(1956)に生まれ、千葉県で幼少期を過ごしました。五井小学校、千葉大学教育学部附属中学校、開成高校を経て、昭和50年(1975)東京大学法学部に進まれます。

 香川さんには、財務官僚としては珍しいくらいの懐の深さ、幅の広さがありましたが、おそらく、そのような人格形成に大きな影響を与えたのは、若き日に経験されたお父様との永訣だったのではないでしょうか。彼のお父様は、チッソの水俣工場の工場長を務め、社長候補ともいわれた方だったそうです。しかし、香川さんが高校生のときにガンが発見され、大学生のときに、逝去されたということです。

 「死んでしまったら、会社なんて冷たいもんだよ」と香川さんがポツリと語ったこともありました。一家の大黒柱が倒れてしまったら収入も厳しくなり、治療費の負担も大変だったはずです。きっと、様々なことを見聞されたのでしょう。大学受験の日も、早起きをして妹さんの弁当と自分の弁当を作ってから、試験会場に向かったそうです。

 そういう意味では、香川さんは多感な時期に、人生の辛さ、厳しさに直面されたわけです。大学入学当初は、そのこともあって荒れた生活を送られたこともあったようです。

 そのような香川さんを立ち直らせたのは、彼のお母様の「お父さんに恥ずかしくないの?」というひと言だったそうです。彼は一念発起して勉強に打ち込みます。母親を楽にさせてあげたいと、弁護士をめざすことも考えたようですが、ゼミの先生から「大蔵省に行ったらどうか」と勧められて国家公務員試験を受験し、大蔵官僚の道を歩むこととなります。

 大蔵省といえば、学歴エリートの頂点の世界です。その世界を歩むことになった香川さんは、しかし、もう一方で確かに「普通の人たちの世界」にもしっかりと立脚されていたように思います。

 2つの世界を自らのうちに確かに保持していたことは、彼の幅広い人脈が雄弁に物語っていますが、それも彼が若き日に苦労を味わったことによるのでしょう。

 香川さんが最後まで「普通の人たちの世界」を大切にし続けたもう1つの理由は、お母様に求められるのでしょう。香川さんのお母様は香川さんが亡くなる8カ月前に他界されましたが、お母様の周りの人たちの多くは、息子である香川さんが東京で役人をしていることは知っていても、まさか財務省の事務次官だとはご存じなかったそうです。お母様にとって香川さんは自慢の息子だったに違いありませんが、そのことを周りにことさらに吹聴することはなかったのです。そして香川さんも周りの人を私事に巻き込むまいと考えたのか、家族だけの密葬の形を取ってお母様を見送られました。この母にしてこの子あり、ということでしょう。

 香川さんが大蔵省に入省されたのは、昭和54年(1979)のことです。私がはじめて香川さんに会ったのは、二見牧場の二見武興さんが主宰する勉強会でのことでした。私が松下政経塾の1年生だった頃のことですから、昭和56年(1981)だったでしょうか。官界、マスコミ界などの若手を集めたその勉強会には数名の若手大蔵官僚が来ていましたが、香川さんはその中の1人で、お互いまだ駆け出しの頃でした。

 当時も今も、霞が関官僚といえば(ことに若手のうちは)、給料はけっして高くはないのに、長時間労働を求められる仕事です。メディアなどではやっかみ半分で、嫌なエリートのイメージばかりが強調されることもあります。しかし、若き日に最初に出会った大蔵官僚が香川さんだったことは、私にとってとても幸せなことでした。そういう悪しきイメージにとらわれずに済んだからです。

 ウイットに富んでいて、快活で、相手を思いやって、しかも志がきわめて高い――。香川さんをはじめとする方々の鋭い議論には本当に刺激を受けました。当時のことですから、話題の中心は土光臨調(第2次臨時行政調査会)や財政赤字への対処、教育クオリティの低下がもたらす生産性の低下、ローマ帝国衰亡史などでした。そのようなテーマを熱く語り続ける姿を見て、幕末の志士たちもこんな人たちだったかと思ったものです。

 その後、昭和59年(1984)に香川さんは長野県の佐久税務署長に就任されます。そして昭和60年(1985)には通商産業省産業政策局商政課長補佐、昭和62年(1987)からは当時内閣官房副長官だった小沢一郎さんの秘書官を務められます。豪腕で鳴らした小沢さんの下での八面六臂の活躍が、香川さんの名を大きく高めることになります。私も28歳のときにミサワホーム(当時)に入り、30歳になる頃に会社を立ち上げましたので、お互いに忙しく、しばらくは年に1度くらいしかお会いする機会がなくなってしまいました。

 その後、32、3歳になった頃、久しぶりに横浜の「あいちや」という料亭で再会したことをきっかけに、また頻繁に会うようになりました。

 香川さんからすれば松下政経塾を出てIT事業を営むようになった私は、政界や官界の話は通じるうえに、利害関係がまったくありませんから、きっと話しやすい相手だったのでしょう。お互いに頼むことも頼まれることもなく、友人関係を育んでいくことができたことは幸福なことでした。ほとんど毎週1回、年に50回近くお会いしていたように思います。私たちが歳を重ねるごとに行くお店は変わっていきましたが、しかし同じようなおつきあいがずっと続きました。

 話は脱線しますが、当時の官僚たちはよく料理屋で会合を開いていたものでした。時に各省庁の担当が集まり、時には業界関係者と会って議論をし、政策課題のすり合わせをしていたのです。その後、バブル期を経てあまりに行き過ぎたケースがメディアでも問題にもなりましたが、しかし、それはあくまで極端な例でした。一面において、このような場で国家の中枢を担う彼らが本音の議論を重ねていたことは、日本の政策決定を確かなものとする面では重要な意味を持っていたように思います。

 そのような場では、相手が本当に信頼できる人間かどうかを見極めることもできます。松下幸之助も、「料理屋の女将に採点してもらえば、人間がよくわかる」といっていました。多くの人たちを見てきた女将さんたちは、まさに人間通です。料亭の女将や女性たちにモテるかどうかは、その人間の本性を知る重要なポイントとなります。女性たちに上から目線で接するような人、あるいは目上に対するのと目下に対するのとで態度がまったく変わるような人は、当然ながらモテません。その点、香川さんが大いにモテる人であったことは、もちろん、いうまでもありません。

 香川さんはそのような場で各省庁の第一線の人たち、さらに幅広い業界の人々との、濃密な人的ネットワークを築き上げました。しかも、仕事のための打算的なつきあいなどではありません。本書でも様々なエピソードが語られていますが、香川さんは本当に「友達甲斐(ともだちがい)」のある人でした。彼は心の底から「友達思い」でしたし、偉ぶるところなどまったくなく、つきあっていて、とても楽しい人でした。ぜひとも、また会いたくなる人でした。親しい友人たちの輪が広がり、楽しく充実した時間を共有することができたのは、ひとえに香川さんの人徳の賜物です。そして逆に、利害を超えた友人関係が培われてきたからこそ、その人的ネットワークが、後年の彼の仕事を大きく助けることとなります。

 香川さんは私にも数多くの方々を紹介してくれました。香川さんの場合、紹介の仕方が本当に絶妙でした。初対面の人であっても自然に関係が深まっていくような、そんな仲立ちをしてくれるのです。本当に気配りの人でした。そして、人との関係をとても大切にする方でした。

 そのような気配りの勘所は、彼が政治家の方々と一緒に仕事をしていくうちに学んだものかもしれません。しかしそれ以上に、彼が飛び抜けて人懐っこくて「人間好き」――時に寂しがり屋に見えるほどの――だったことが大きかったようにも思います。若い頃に佐久税務署長を務めた話を紹介しましたが、香川さんは後年になってもずっと佐久税務署の仲間たちの会合などに積極的に顔を出していました。そして、心の底から楽しんでいました。ほとんど毎年、足を運んでいたのではないでしょうか。そのようなことをサラッと続けることができるところからも、香川さんのお人柄が伝わってきます。

 仕事のうえでは、香川さんは1995年には英王立国際問題研究所(チャタムハウス)客員研究員となり、1997年に国際金融局総務課国際調整室長。以後、主計局主計官(防衛担当、公共事業担当)、主計局次長、大臣官房総括審議官などを経て、大臣官房長(2010年7月~)、主計局長(2013年6月~)、財務事務次官(2014年7月~)に就任されます。

 香川さんは、たとえどんなに困難なことであろうとも、ガッツをもって真正面から敢然と取り組む人でした。志に燃える彼は毎回、色々なことをやらかしたものです。

 防衛担当の主計官だったときには、聖域とされていたアメリカ軍への「思いやり予算」に手をつけ、何と削減してみせました。アメリカ大使館からは「お尋ね者」扱いされ、日本の関係省庁からも苦い顔をされたようですが、しかし、見事にやりおおせてみせました。

 対外国ばかりではありません。公共事業を14兆円から7兆円に削ったこともあります。当然、大物政治家たちと激しいやりとりをしなければなりません。しかし彼の凄いところは、そのような政治家たちに1人で突撃していって主張すべきを主張するのに、持ち前の愛嬌と誠実さで、敵にならないどころか仲良くなってしまうところでした。

 そのような難事に直面して、なお恨まれなかった秘訣は、先ほど挙げたように「官僚的な世界」と「普通人の世界」の両方の感覚を彼がずっと見失わなかったからなのでしょう。天性の人間好きが愛される人柄を作り、さらに若き日の苦渋が人間の幅を広げていった。さらに、生涯を通して責任感ある誠実な生き方をまっすぐに貫き、様々な困難を克服していったことで声望が高まり、「香川さんが、そこまでいうのなら」と説得力もどんどんと高まっていった。すべて、香川さんの人間力あってのものだったと思います。

 彼は「詭道」的な手法を取りませんでした。いつも、まっすぐに、なおかつユーモアを忘れずに仕事に、相手に、ぶつかっていきました。しかも、それは常に正義感、「公の心」に裏打ちされていました。

 香川さんは、社会保障と税の一体改革をやり抜かなければ、日本は滅ぶと真剣に考えていました。財政が破綻し、太平洋戦争直後のような激しいインフレになって、国民の財産が消失するようなことが起きてはいけない。たとえ嫌われようとも、消費税率をどこまで上げて、社会保障の給付をどのように抑えればいいのかを考えていく。そういう国民的な議論をやりたかったに違いありません。香川さんは、常に現場に足を運んで意見を求めていました。

 2012年、当時の野田政権下で結ばれた、民主党、自由民主党、公明党の「社会保障・税一体改革に関する合意(三党合意)」は、まさに彼なくしてはありえないことでした。しかし、その年末に安倍政権が誕生すると、2014年4月から消費税率を8パーセントにすることは実現したものの、2015年10月からの10パーセントへの引き上げは延期されます。その延期が表明されたのは、2014年11月のこと。安倍総理は消費税率引き上げを延期することについての信を問うために解散も行ないました。

 このような情勢の中、香川さんはなお、消費税率引き上げを実現すべく全力を尽くしました。安倍総理が税率10パーセントを回避するという強い意志を持っているのだから無謀だと周りの人は止めましたが、それでも彼は真っ正面からぶつかっていきました。すでにガンを発病したあとで体調も万全ではなく、足も痛かったはずですが、それを押して、説明のための資料(彼は「アジビラ」といっていましたが)を片手に各方面への説明を繰り返し、夜の会合も多数こなしていた姿は、崇高でさえありました。

 香川さんが、それぞれの場面で、どのような仕事を、どのようにされたのか――そのエピソードは、本書で皆さんが存分に語っておられます。それを読むとき、香川さんと知り合ってご縁をいただいてきた私は、あらためて深く感銘を受け、胸が一杯になります。本当に見事としかいいようのない生き様です。男が惚れる仕事ぶりです。香川さん、日本のためにここまでご奮闘いただきまして、ありがとうございました。

 香川さんの病気が発覚したのは、2012年8月のことでした。人間ドックで、食道ガンが見つかったのです。すでにステージ3を超えていました。三党合意の関連法案を8月9日に参議院で通したあと、即入院し治療に励み、12月には1度退院されますが、すぐにギラン・バレー症候群になってしまい、翌年4月まで入院生活を余儀なくされました。

 退院されてから、前述のように主計局長、財務事務次官という激務をこなされたわけですが、2015年4月にガンの再発が見つかります。同年7月に財務省を退官され、そのまま入院加療を続けられますが、誠に残念ながら8月9日に逝去されました。

 財務省を退官される折には、体調も厳しかったでしょうに、お世話になった政治家の地元や、各地の財務局を歴訪し、お礼行脚(あんぎゃ)をされています。そのことも、本当に香川さんらしいと思います。

 これから、香川さんのような人が出てくるでしょうか。香川さんのお仕事ぶりは、「人間力」あってのものですから、一朝一夕にできあがるものではなく、とても難しいことのように思います。しかし、「めざすべき姿」が明確なものとして伝われば、後進にとっては何よりの導きとなるでしょう。本書がそのための記録になれば、発行委員会として、これに勝る喜びはありません。香川さんもきっと、喜んでくださると思います。

 残された私たちも、香川さんに恥ずかしくないように、精一杯頑張っていきたいと思います。

 香川さん、本当に私たちの友達でいてくれてありがとうございました。あなたにお会いすることができて本当によかったです。とても楽しい日々でした。心より御礼申しあげます。そして、また逢える日を楽しみにしております。

2016年12月1日