神藏孝之

激変する状況の中で 1. 私とイマジニア 2. 松下幸之助塾主に学んだこと

(1)幕末転換期から学ぶ

横井小楠、佐久間象山、西郷隆盛…なぜ幕末に人材が育ったか

●今の日本のために「幕末転換期」を参照する

 今は、霞ヶ関にせよ永田町にせよ、点で見ると「いい人」たちがそれなりにいる時代だと思います。幕末の幕府が機能しなくなったときにも、勝海舟、小栗上野介、永井尚志、さらに外交では岩瀬(忠震)のような人がいました。同じようなことですが、総体としては動かない感じの面々です。

 そして、今の自民党や霞ヶ関などを見ていると、全体として、今の日本は幕末の転換点に非常に近いのではないかと。

 幕末の転換点をどこから見るかというと、ペリー来航を中間点だとすると、前期は大塩平八郎の乱に始まり、ペリーがやってくるところまでが転換の前期です。転換の後期については、ペリー来航の頃は「黒船が来た」といって普通の人が騒いでいましたが、井伊大老が暗殺され、永遠に続くかと思われた政権の大老が白昼堂々、水戸の浪士崩れに暗殺されるという事件が起こった。これで、世の中が変わったのではないかということが、実感値として分かってきたのではないか。(それが、1860~1868の)この部分です。

 冒頭に、今は結構、幕末に近いのではないかと。

 これは、「テンミニッツTV」で養田功一郎氏にお話しいただいたときに、「日本銀行金融研究所貨幣博物館資料」からグラフにしていただいたものです。

 1860年を見ていって、その値を1とすると、1865年ぐらいまでに物価は約2倍になります。物価が2倍になる程度だと耐えられるのですが、(幕末には)金銀交換比率を間違ったり、今回(令和)のコロナと似たようなコレラ騒動があったりしました。貿易を開いたときにコレラが大量発生したのです。さらに、安政の地震が2回やってくる。そのようなことが影響したため、物価が1865年から急上昇して、銀ベースで見た物価(オレンジ線)は8倍ぐらいになります。金ベース(灰色線)で見ても4倍ぐらいになってしまう。

 これは、誰が見ても耐えられない。2倍程度なら耐えられても、8倍まで上がると到底無理です。この部分が一つのポイントになっていて、実感値としては「やっていられない」という感じです。

 それと同時に、次に出てくる勝海舟のような(幕府の)人材が考えたのは、今の仕組みの中ではどうにもならない、全部取り替えなければならないということでした。これは別段薩長でなくてもよかったと思いますが、ちょうどその頃に薩長が出てきたという形になります。

 このとき(の事情)は、最初にインドがオスマントルコを植民地にしたけれど、そのインドが(イギリスに)蚕食された。次にアヘン戦争が起こり、(列強が)中国にまでやってきた。そのためにはオランダから入ってくる長崎経路もあったし、対馬から入ってくる朝鮮経路もあれば、薩摩の密貿易もあった。だから、部分的な情報はいろいろなところから入ってきていたのです。

 その一方で、(日本には)アメリカからペリーがやってくる。ロシアからはプチャーチンもやってくる。このとき、基本的には「どうすれば、(日本は)清国のような植民地にならずにすむか」という危機感が強烈にあったはずです。

 それに対する構想係として佐藤一斎の孫弟子になる横井小楠と佐久間象山がいました。こういう人たちが育っていて、日本をどういう国にすればよいかという構想係を担ったのです。また、束ね役としては岩倉具視や西郷(隆盛)がいる。束ね役が束ねるのは、(構想係とともに)大久保(利通)、伊藤(博文)、山縣(有朋)のような実行係です。

 この時期の武士がだいたい100万人ぐらいいたとしても、(転換期の人材として)関わったのは7000~8000人ぐらいです。それでも、7000~8000人ぐらいの人がいるというのは、非常に面白い点です。


●寛政の改革は教育改革だった――藩校から私塾へとつながる人材育成システム

 では、どうすれば人材が(育成)できるのかという点に入ります。人材は急にはできません。松平定信が行った「寛政の改革」では、緊縮財政や財政立て直しが主流になっています。ところが、東大で哲学を研究している中島(隆博)先生が教えてくれたところによると、「寛政の改革は教育改革だった」ということです。その教育改革が、実は人材を生む場所になってくると。

 それまでの状況というのは、寛政の改革をやらないといけないぐらいだから、相当行き詰まってきています。今までのように上士の子だけを出世させるようなシステムは煮詰まってしまい、世襲制度の限界にぶつかっていたわけです。

 そこで、石高は高くないけれど優秀な人物を試験によって登用する仕組みをつくろうとする。それが「学問吟味」所で、その後、蕃書調所になっていきます。この校長には、従来は林家専従だったのを、佐藤一斎を登用しています。ここで江戸幕府の人材登用システムが変わってきたわけで、一つのポイントになってこようかと思います。

 幕府(の策)がうまく行くのを、残りの300諸藩が見ていて、当時はそれぞれの地方が独立していましたが、「これは、いい仕組みだ。自分のところも同じような形ができないか」と考えるようになった。やはり、上士だけの登用では行き詰まっていたわけです。そのため、1806年から幕末くらいまでの間に藩校が150校ほどできてきます。これは各藩の藩校といわれていますが、寛政の改革で幕府が改革した後の情勢を見て、それぞれの藩が「これはいい仕組みだ」と取り入れたわけです。

 この制度の何がよかったかというと、きちんと勉強するようになって読解力がついてきた(こと)。また、こうした幕府の「学問吟味」所や各藩の藩校ができたことが、江戸幕末の「私塾」という形を生むことにつながります。ある程度の知識を持った人間がいろいろな藩から江戸へ留学にやってきて、それぞれの塾で切磋琢磨するような方式です。


●危機感と制度改変によって育った幕末の人材

 横井小楠にせよ佐久間象山にせよ、明治維新の100年ほど前に出てきた佐藤一斎から見ると、弟子ないし孫弟子くらいの感じです。その佐久間象山のところから吉田松陰が出てくる。吉田松陰のところから久坂(玄瑞)や高杉(晋作)が出てくる。また、佐久間象山のところからは勝海舟が出てきて、坂本龍馬、陸奥宗光につながっていく。このように、それぞれの流派と系統が出てくるところが非常に面白いのです。

 ですから、幕末と(現在を)対比するにあたっても、急に人が出てきたわけではないことを知っておく。勝海舟は急には出てこない。やはりどこかで制度を変えてあげないといけないし、その部分がポイントになってくるのかと感じます。

「植民地にされてしまうのではないか」「(列強に)飲み込まれるのではないか」(という危機感は)、文字が読めて読解力がないと情報は入ってこない(ので生まれない)。(当時の幕府では)アヘン戦争で何があったのかは、相当明確に分かっていたわけですし、アメリカの独立戦争で何があったのかも分かっていたわけです。

 そうした部分の危機感とともに、非常にラッキーだったのは、ペリーがやって来てしばらくたつと、アメリカが南北戦争に入っていった。1861年から1865年の間、内部戦争をしてくれたおかげで、アメリカはどこかへ行ってくれていた。そのために、幕府がフランスにつき、薩長がイギリスにつくという図式になってきます。

 いずれにせよポイントは、日本が独立するためにどうするか。ここは、(幕府と薩長の)共通項だったのかという感じがします。そのような危機感がある時代には、多少矢玉に当たっても死の谷を越えていかなければならないという覚悟がある。実際に矢玉に当たって死んでしまった人が大勢いるので、死の谷を越えられた人たちの名前が歴史に残るのだと思います。

 多少荒っぽくても、多少礼儀知らずでも、運の強い人が生き残っていく。そういう人たちが、大量に出てきた時代なのかという感じです。