神藏孝之

激変する状況の中で 1. 私とイマジニア 2. 松下幸之助塾主に学んだこと

講演『人間の器量とは何か』

日本の予算で自由になるのは全体の25%のみ

 第2次世界大戦の敗戦の折、政府債務残高はGDP比で200パーセントを超えていました。あれだけの大戦争を行なうために、開戦の翌年の1942年に制定された旧日銀法で日銀の国債引き受けも認めています。

 賀屋興宣(かやおきのり)や岸信介など優秀な経済官僚はいましたが、それでも敗戦の日までに、債務残高GDP比は200パーセントにまで達していました。

 今、日本に起きているのは、こうした敗戦のときよりも悪化した財政です。2017年度で債務残高GDP比は221パーセントですが、2018年度には240パーセントを超えるでしょう。

 問題解決は簡単ではありません。97兆7128億円の予算のうち、年金、医療、介護等々の社会保障費が、平成30年度予算(以下同)では32兆9732億円で、歳出全体の33.7%を占めます。地方交付税交付金等が15兆5150億円。これは地方自治体に渡される交付金ですが、地方自治体での使途を考えれば、社会保障的な意味合いも強い支出です。そして国債費が23兆3020億円になっています。この国債費のなかには国債1000兆円の元金の支払いと利払いもあります。利払いは、目下のマイナス金利、ゼロ金利のために9兆円しか現段階では計上していません。

 しかし、これら社会保障費、地方交付税交付金、国債費の3つを足しただけで71兆7902億円。予算のうち73.4%を占めています。これらは、ある意味では支払使途が決まっている予算です。

 一方の歳入ですが、政府は史上最高の税率に引き上げるといっていますが、予算案では租税収入(印紙収入含む)が59兆0790億円です。歳出97兆円との不足分38兆6338億円は主に国債などで賄う予算案になっています。このように歳出額と税収額の差額がどんどん増えて、積み上がってきているのです。当然、その場合、歳出を減らそうという発想も持たなくてはなりませんが、先ほど見たように、予算のうち支払使途が決まっている社会保障費などが73.4%にもなり、国家公務員の人件費や、防衛費、公共事業、文教及び科学振興など、多少なりとも削れそうな部分は、今の状況では全体の25%ほどしかありません。

 しかし、日本の財政は、最初から野放図だったわけではありません。本格的に巨額の赤字国債が発行されるようになったのは昭和50年度(1975年)からです。2兆905億円の赤字国債が発行されましたが、このときの大蔵大臣は大平正芳でした(三木武夫内閣)。彼は終生、「こんなことはすべきではない」という葛藤を抱き続けました。そのため彼は、1978年12月に首相になると一般消費税(税率5%)の導入に熱意を傾けますが、1979年の衆院選挙で自民党過半数割れの大敗を喫し、党内抗争の末、翌1980年に再び衆院を解散しますが、その選挙戦中に70歳で急死してしまいます。

 1975年から40年あまりで国債残高が1000兆円にまで膨らんでしまったことになります。大平正芳の苦悩を考えるとき、現在、1000兆円を超える国債という幻の果実の下にいながら、私たちには何かあまり緊張感がありません。儲からなくても、霞が関に陳情に行けば補助金がもらえるという雰囲気さえあります。その結果、こうした財政の流れになってしまったのです。

「猫に小判だ」――松下幸之助翁の真剣な叱責

 ここで、松下幸之助が松下政経塾をつくって1年目の終わりに、1期生の塾生を前にして語った言葉を紹介したいと思います。

「君らは辛酸をなめていない。つまり君らは心眼が開けていないのだ。経営というものについて、心眼が開けていない。だからわからないのだ。人の育て方や人の使い方、お得意先に対しての仕事の仕方、そんなものは全部持っている。猫に小判という言葉があるだろう。猫に小判だったらいけないが、君らはその猫に小判の方だ」

 政経塾の1期生のなかには、「社会保障・税の一体改革」を推進しようとした野田佳彦前総理大臣もいました。彼ら二十数人が1年間の研修を終えたところで、松下幸之助が成果を聞き、そこで上の発言が出てきたのです。

 松下政経塾では松下電器の販売店(ナショナルショップ)での販売実習なども行なわれましたが、そこで何も学んでいない。販売店には経営の大切な要素があるのに、それをつかんでいない。「おまえたちに1年間、寮を与えて、生活の面倒を見て、勉強させたけれども、猫に小判だった」というのです。

 85歳という老翁が20代の若者に対して、「猫に小判だ」という。ここに真剣さが表れています。

国が経営を誤れば国民が大きな不幸に陥る

 彼がどうしてこれほど真剣であったのかは、松下幸之助という人物がどこから始まっているのかを考えると理解できます。松下幸之助の歴史のなかには3回転換点がありますが、最も重要なのは敗戦からの5年間でした。戦後、GHQが日本の財閥解体を進めますが、昭和21年、松下電器は「財閥」に指定されます。同年3月に制限会社の指定を受け、すべての会社資産が凍結。6月に財閥家族の指定、7月に賠償工場の指定、8月に軍需補償の打ち切り、11月に公職追放の指定、12月に持株会社の指定、昭和23年2月に集中排除法の適用と、様々な制限を受けました。

 戦時中、松下電器は軍の強い要請を受けて、250トン型の木造船をつくる松下造船や、木造飛行機をつくる松下飛行機といった会社をつくっていました(松下造船は昭和18年4月設立。松下飛行機は昭和18年10月設立)。完成した木造船は56隻、飛行機は4機でしたが、このようなことが制限を受ける大きな要因になったのです。自分が進んでやったわけではないのに船や飛行機をつくらされ、しかもその補償も打ち切られて、金をまったく払ってもらえない。さらに、公職追放指定を受けていましたので、仕事もしてはいけません。散々な目に遭ったのです。

 1945年、松下電器で一生懸命働いてきた50歳の松下幸之助はこうして、人生のなかでも、まったく不可解な状況に5年間、放り込まれてしまいました。彼の政治に対する怒りは、まさに公の怒りです。もし、この空白の5年間がなければ、幸之助はおそらく政治には関与していなかったでしょう。単に「金もうけのうまい、大阪の大金持ちの成金」という感じで終わっていたかもしれません。あのように異様に理不尽な目に遭ったということが彼の原点ではないかと思います。物心両面の繁栄によって、平和と幸福をめざす(Peace and Happiness through Prosperity)、PHP研究所を設立したのも、昭和21年11月のことでした。

 彼は53歳のときに、戦前から仕事を共に進めてきた番頭60人を集めて、江崎グリコの江崎利一氏に借りた金で皆をすき焼き屋に連れていきました。そして、「おまえはペンだ。おまえには茶碗だ」と形見分けをしたそうです。そのとき、どうも彼は自殺も考えていたのではないか、とさえいわれます。自然に遊ぶ鳥獣は、見るからに嬉々として楽しんでいるのに、鳥獣よりすぐれた知恵に恵まれている人間が、なぜ困窮に陥っているのか。いい加減な連中を日本のリーダーにするとひどい目に遭う。松下が経営を誤らなくとも、国が経営を誤れば、それに巻き込まれて、国民が大きな不幸に陥る。こうした思いに至ったことが彼の原点になりました。

 このように窮地に追い込まれた5年間を経て、松下幸之助は実業家から、哲学者、思想家へと変化していくのです。自殺を考えるところまで追い詰められながら考えたことから、すべてがスタートしていきます。

 だからこそ、自分がつくった松下政経塾が1年目を終えたとき、松下幸之助は「どうして、販売店に行って、そこの店主の苦労がわからないのか」と真剣に塾生を叱ったのです。何が正しく、何が間違いであるかを電器屋の店主が教えてくれているのに、君たちは何を学んできたのだ、と。

 あれほど緊張感があり、あれほど怖い人は、その後も出会ったことがありません。それほどに真剣で厳しい叱責でした。つまり私は20代の前半に、人生で最も怖い人に出会ったことになります。20代の最初に人生で最も怖い人に出会えたということは、非常にありがたかったと思います。

国家経営のわかる政治家を――松下幸之助のビジョン

 松下幸之助の政治ビジョンは、煎じ詰めれば、「無税国家」と「新国土創成論」と「政治の生産性の向上」の3つになるのではないかと思います、これを理解するには、逆に「誰がこれに近いことを実践したか」ということを見てみるとわかりやすいと思います。

(※注:「無税国家」とは、次のような発想です。経営努力によって、国家の歳出から毎年何%かの剰余金を生み出し、それを積み立てていく。その積立金を運用していけば、100年後には利子収入だけで予算を賄えるようになるのではないか――。

 仮に国家予算が年間80兆円だとして、その1%にあたる8000億円を積み立てたとしましょう。毎年5%の利率で運用したとすると、100年後には2000兆円を超え、その利子だけで100兆円の歳入があることとなります。

 現在のような低金利では空想的に思えてしまいますが、松下幸之助が無税国家論を発表した1979年頃は、金利5%というのは普通のことでした)

 なぜ、松下幸之助はこのような発想をしたのでしょうか。江戸時代でも、増税する代官は悪代官でした。五公五民といわれましたが、実際は運用上、四公六民ぐらいで、税金を半分も取っていなかったのです。しかも、江戸中期以降は新田開発が行なわれたり、さらに菜種油などの商品作物の栽培や機織などの副業的な部分があったりしましたので(原則、それらは課税されないことが多かったようです)、実質的にはさらに税率が低かったことになります。ところが、松下幸之助が日本一の実業家になっていく過程で、国税が70パーセント、地方税が15パーセントで、調整をつけても8割以上もむしり取られるようになりました。このときに彼は、「なぜこんなに高い税金を取られ、しかもその税金が無駄なことに使われて、雲散霧消していくのか」と憤るのです。

幸之助ビジョンの実践者は鄧小平とリー・クアンユー

 さて、このような松下幸之助の考え方に最も近いことを実践したのは、結果的には、鄧小平とリー・クアンユーだったのではないでしょうか。

 鄧小平は1978年に初来日したとき、大阪・茨木市の松下電器の最新鋭のテレビ工場を訪れ、「本日は、教えを請う姿勢で来ました」と発言しています。今の中国からは絶対に想像できないような会話です。

 他方、リー・クアンユーはシンガポールを発展させるに当たって、無税国家の発想を実現させました。小さい国ですが無借金ですし、1人あたりGDPで見ても、日本は3万8400ドル程度に対してシンガポールは5万7700ドルほどもあります。テマセクとGIC(シンガポール政府投資公社)というソブリン・ウェルス・ファンド(政府系ファンド)がありますが、この2つの運用資産額の合計は70兆円に達しようかという規模です。まさに無税国家に近い状況です。

 リー・クアンユーには有名な涙の独立演説があります。彼はケンブリッジ大学で100年に1度の秀才といわれた人物で、プライドも非常に高かったのです。そのリー・クアンユーが、1965年、民族紛争などが原因で、マレー連邦からシンガポールが分離独立することになった折に行なったのが、涙の演説です。「自分は、マレーシアとシンガポールの合併と統一を信じてきた。地理的にも経済的にも、そして血族的にも人々はつながっていたのに……」と慨嘆したのです。

 当時、シンガポールの人口はおよそ200万人です。島ですから水も食料も十分にありません。当然、石油もありません。こうした状況で、どうすれば200万人を食べさせていけるでしょうか。リー・クアンユー自身にも答えはありませんでした。この最も苦しい状況で、涙の独立宣言を行なうわけです。

 現在のシンガポールの公用語は英語、普通語(標準中国語)、マレー語、タミル語(南インドの言語)ですが、独立当初から皆、英語を話せたかというと、そういうわけではありませんでした。イギリスの植民地ではありましたが、当時、イングリッシュスクールに通い、英語を話せた人は10パーセント足らずだったのです。つまり、200万人のうち20万人しか英語を話せなかったわけです。

 しかし、シンガポールが生きていくため、リー・クアンユーは英語を公用語に仕立て上げました。人口の7割が中国系、2割がマレー系、そして7、8パーセントがインド系です。当然ものすごい反対運動の嵐が巻き起こりますが、めげませんでした。リー・クアンユーが必死になって考えた結果、シンガポールは今や、相続税ゼロ、法人税17パーセントと、世界で最も低い水準の税率です。

アジアのなかでいちばん優秀な人材を育てる

 あまり知られていませんが、1941年シンガポールが日本に占領されたとき、リー・クアンユーが最初にやった仕事は、日本軍の下請けの部品調達でした。日本語は話しませんが、半分ぐらいはわかります。

 日本軍に教えてもらって良かったことが1つだけあると、のちに回想しています。憲兵隊などで徹底的に統制すると、犯罪が起きなくなるということです。これは多少の皮肉も込められているのですが、彼がいっていることです。

 彼がシンガポールを発展させたやり方は、アジアのなかで自分たちがいちばん優秀な人材になるということでした。このエリアに来れば、人材インフラがそろっているという状態にするのです。実際シンガポールには、英語ができてハイエンドの教育を受けた人材が、比率的にどこよりも多い。この部分に特化したわけです。

 結果として、アジア世界大学ランキングでは、シンガポール国立大学が1位で、シンガポールの南洋理工大学もトップ5の常連です。どこに金を投資すると儲かるのか、どういった人材を育てればいいのかということを考えた結果でしょう。

 良い悪いは別にして、リー・クアンユーの独立当初の原点が反映されていると見るべきでしょう。つまり、自分たちが食べていけるようになるためにはどうすればいいのか、涙を流しながら考えたことがこの国の原点になっているのです。リー・クアンユーのグループは20~30人いましたが、彼らが、今のシンガポールをつくりました。

3度失脚して、3度復活した鄧小平の粘り強さ

 鄧小平は、1978年に初来日した段階で、肩書は副首相ですが、最高権力者になっていました。彼の人生で圧倒的に面白いのは、起き上がりこぼしといわれるほど、失敗してはそのたびにまた復活してきたところです。

 彼は3度失脚しています。1度目の失脚は、1931年、党中央の路線闘争に敗れてのものでした(1935年に復活)。2度目の失脚は文革の折のことです。鄧小平は、毛沢東が「大躍進」で失敗したのち、中国経済の総責任者として経済再建に取り組みました。

 その後、鄧小平は経済再建に従事したことから反革命分子だと批判され、紅衛兵を使って再び権力を取りに来た毛沢東に、役職をすべて奪われてしまったのです。

 彼の凄さは、それでも絶対にあきらめないという点でしょう。北京大学にいた鄧小平の長男の鄧樸方は、文革の時代に投獄されて厳しく取り調べられたあと、ビルから転落して半身不随になってしまいます。家族も離散させられました。

 にもかかわらず、鄧小平は毛沢東に手紙を書き続けます。この粘りが強烈です。周恩来とのコンタクトも、絶対に絶やそうとはしません。

 鄧小平は有能な経済設計者でしたから、もし毛沢東が鄧小平を抹殺していれば、今の中国の経済発展はありえないでしょう。鄧小平は能力とともに怖さも兼ね備えていたのです。

 その後、鄧小平は周恩来の計らいで再び復帰することになります。中国は経済的に立ち行かなくなっていた混乱の時期に鄧小平は復活を遂げますが、周恩来はがんに侵されて1976年1月8日に亡くなってしまいました。

 天安門事件は2度起きているのですが、1回目は、1976年4月5日に、周恩来の死去を惜しむ民衆が大量に集まったことで始まります。

 民衆があまりにも周恩来を支持しているということを見た毛沢東は、再び鄧小平を潰そうとします(3度目の失脚)。しかし、毛沢東の寿命の方が尽きるのが早く、周恩来の死の8カ月後の9月9日に毛沢東は死去します。さらにその翌月、文革を主導した四人組(江青、張春橋、姚文元、王洪文)も逮捕されて、結果的にその後まもなく鄧小平の時代が始まり、以後30年間続くことになりました。

鄧小平が推し進めた「改革開放」の凄み

 鄧小平が実行した政策を見れば、政治がいかに国にとって大事なことかがわかるでしょう。鄧小平の凄さの象徴は深圳です。深圳はもともと人口6万人ほどの漁村でした。その漁村が、今や「中国のシリコンバレー」と呼ばれるほどに発展してきています。ここに電気自動車(EV)や蓄電バッテリーなど、ありとあらゆる最先端技術がそろっており、テンセント(中国語:腾讯。世界最大級のメッセンジャーアプリ「WeChat」を運営する、決済プラットフォーム会社でありゲーム会社)や、ファーウェイ(中国語:華為技術。通信機器メーカー)もここにあります。

 鄧小平が晩年に取り組んだのが深圳の改革でした。ただし簡単なことではありませんでした。冷戦が終わりつつある1989年6月4日に天安門事件が起きます。中国国内では改革開放に対する逆風が吹き、保守派長老の陳雲が唱えていた鳥籠経済論(市場経済を「鳥」、計画経済を「籠」として、市場経済を計画経済の範囲内で運用しようとする考え方)がもてはやされるなどしていました。

 天安門事件の段階で84歳だった鄧小平は、事件の直後、江沢民を総書記に抜擢し、同年11月には共産党中央軍事委員会主席の座も江沢民に譲って、表向きは公職から引退していました。しかし、改革開放経済に水を差す議論が強まると、あきらめることなく自ら1992年に深圳など南方の都市を巡り、「南巡講話」を発表します。各地で改革開放路線を後押しする言葉を発し、保守派の反対を押し返したのです。

 深圳の空港に行くと、今でも鄧小平の「百年不動揺」という言葉が書かれた看板が掲げられています。つまり、改革開放路線の社会主義市場経済は、100年揺るがないという宣言です。鄧小平は「豊かになれる人から先に豊かになれ」という「先富論」を唱えていました。「黒い猫でも白い猫でも、ネズミを捕るなら良い猫だ」という言葉も有名です。彼は毛沢東らの階級闘争路線をなげうち、近代化と経済発展を優先させて国力を増強させる道を選んだのです。

「やらせてみる」経済政策を進める中国共産党

 中国共産党を共産主義の政党だと考えるのは、誤解ではないでしょうか。むしろ、中国共産党という名の王朝なのだと考えるべきです。つまり、政治権力に手さえ出さなければ、自分たち中国共産党の統治を脅かさなければ、何でもありだというのが基本的なやり方なのです。中国共産党は実は、非常に商売に対して理解があるわけです。

 現在、華僑と呼ばれる人たちは、世界に4000万人ほどいます。オーバーシーチャイニーズという言い方をしますが、海外にチャンスを求めたり、弾圧されたりして、中国本土から外に飛び出して移住した人々です。世界中に散らばっていますが、中国共産党は彼らとの関係を絶やしませんでした。

 習近平に奨学金を出したのも李明治という香港華僑です。中国共産党は、4000万人のオーバーシーチャイニーズを有効に使っています。鄧小平の時代には、マレーシア華僑やタイのCPグループが、浦東新区(上海市)等の開発を請け負いました。

 中国共産党の面白いところは、企業が国家権力よりも精度の高い技術や情報を持ってしまうとしても、彼らを平気で中国共産党の党員にしてしまうところです。党員になって、自分たちに逆らわず、ちゃんとキックバックしてくれるのであれば、それで構わないという態度なのです。

 大事なことは、現在の中国の政権は商売に対する理解があるということです。IT業界のように、年がら年中ルールが追いつかないような業界に対して、「とりあえずやらせてみて、害が生じればルールを変えればいい」という立場を持ち込んできています。

 深圳では、無人自動車やEVの実験が進められてきましたが、すでに実装段階に入りました。バスの運転手を雇った場合の事故率は3パーセント、無人運転であれば事故率は1パーセントです。日本であれば大騒ぎでしょうが、中国の政権は「やったらいいじゃない」という態度なのです。

 この流れをつくったのは鄧小平です。現在の中国経済は、鄧小平の改革から始まりました。一方、天安門事件のようなことが起きたときには、平気で自分の側近中の側近、たとえば胡耀邦や趙紫陽を切り捨てる怖さも、鄧小平は併せ持っていました。学生に対して理解があるような人物は、その瞬間に切り捨てるというのです。他方、江沢民にしろ、李鵬にしろ、必ずしも自分と思想が合わなくても、使える人間であれば使います。第2次天安門事件の際、瞬時に鄧小平が判断を下してみせたのは、彼の人生の大きな局面になりました。

日本の政策生態系はどのように構築されていたか

 日本は現在、GDPの240パーセントもの借金を抱えてしまいました。しかし、ここまでに至るなかで、日本に改革者がまったくいなかったというわけではありません。私の30年来の友人に、香川俊介氏がいました。

 彼は2015年に、がんで亡くなってしまいました。彼が亡くなったのち、『正義とユーモア』という題をつけた彼のための追悼文集を、同時代を一緒に生きた仲間や先輩方とともに、2016年12月につくりました。どうしても追悼文集を残しておかなければならないと感じたからです。

 彼は高校1年生のとき、父親ががんにかかります。彼の父はチッソ株式会社の社長候補だったのですが、水俣の工場長を任され、がんになりました。香川氏は、高校1年生から大学1年生まで、父の闘病を支えながら過ごしたわけです。

 開成高校から東大に入り、何とか母に楽をさせようと、当初は弁護士になって稼ぐつもりでいました。しかしあまりにも優秀だったため、東大法学部のゼミの先生が、国のために尽くすべきだといって、役人になるよう勧めたのです。そこで彼は大蔵省の役人になりました。

 私がちょうど松下政経塾の塾生になった1年目に、彼と出会いました。彼は大蔵省に入って3年目くらいでした。お互いに若い時代に出会ったので、それ以来、おそらく人生で最も一緒に飯を食べ、飲んだ仲間になったと思います。20代、30代、40代、50代と、お互い年を重ねるにつれ、収入も増えてきますから、飲み食いする店は変わりましたが、会う回数は1年間でおよそ40~50回のまま変わりませんでした。

 彼の人生を見ていて、日本というのは非常に面白い国だと感じたことがあります。構想を練り、大きな絵図面を描いて、それを根回しするという仕組みがどこにあるのか、まったくわからないことです。鄧小平やリー・クアンユーのように、日本の政治家がそうしたことを行なっていたのか、あるいは霞が関のなかでそれが行なわれていたのか、彼の人生を見ていても、まったくわかりませんでした。

 むしろ日本の政策生態系は、財務省や経産省、外務省、警察、検察が横に連携して、霞が関の連合政府のような形で存在しているのかもしれません。各省に入ったキャリア組20数人のうちでも、1軍、2軍、3軍とグループが分かれ、1軍は1軍同士と付き合うことになります。このような上下関係ができてきます。

 かつては、大蔵省主計局を中心として、各省の1軍の面々がインナーグループを形成していました。そしてそのなかで、日本の状況を何とかするために構想を練るということが行なわれていたようです。

 財務省のせいでGDP比240パーセントもの借金ができたという言い方もできるでしょうが、彼らにいわせれば、政権を維持するために金をばらまき続けた結果だという言い方もできるでしょう。

 増税する代官は悪代官という観念がありますから、本当は集めた税金が雲散霧消しないよう大事に使うべきでしょう。しかし、雲散霧消する仕組みがすでにできてしまっていて、国家予算のうち差配できるのは、先述のように25パーセントしかない状態です。

一官僚として総理と官邸を相手に戦いを挑む

 香川氏が大蔵省に入ったのは1979年です。政府債務残高のGDP比は50パーセントに達しようかという時期でした。当時、大蔵省主計局が実質的に日本の政治を担っていました。彼の持論は、自民党が野党のときにしか消費増税はできないというものでした。

 大平正芳元首相の弟子である谷垣禎一氏が野党時代の自民党総裁の頃、たまたま香川氏と私とほぼ同級生で政経塾でも一緒だった野田佳彦氏が首相になりました。野田氏は財務副大臣、財務大臣を務め、このままだと国家破綻するという危機意識を持っていました。そこで、このタイミングしかないという時期を狙って、2012年8月に、社会保障・税の一体改革関連法案を成立させることができたのです。

 この決断は、国民にとって不人気なことをするときには与党も野党もない、これこそ進化した民主主義だと一部からは評価されました。

 しかし、このプロジェクトにまったく関わらなかった安倍晋三氏が政権を取ったあと、消費税が8パーセントに増税されたため経済がうまくいかないという話になって、さらなる増税が延期されるわけです。

 香川氏が凄かったのは、一財務官僚として総理と官邸を相手に戦いを挑んだことでした。自民党と公明党のなかの根回しも終え、ほとんど香川氏の勝利は確定していたはずでした。しかし、安倍首相が2014年11月に解散を切り出したのです。選挙の結果、増税の延期が決定し、結局は香川氏の負けに終わってしまいます。

 ですが、香川氏はそれでもさらに戦い続けました。菅義偉官房長官の3年目、がんはすでに全身に転移していましたが、車椅子になってもまだ彼は官邸と戦っていたのです。

 ここに唯一、日本で侍文化や武士道が残っていると私は感じました。今の財務省の50歳以上の年長の人たちにはまだ侍文化や武士道がわずかに残ってはいます。彼らが官僚であるあいだにしか、日本には改革するチャンスが残されていないかもしれません。

 香川俊介氏の追悼文集である『正義とユーモア』をつくって非常に良かったと思うことがあります。現在、霞が関のなかには改革官僚としてのロールモデルがいません。この追悼文集が役人たちのバイブルになれば良いなと思います。役人のなかにはこんな生き方をした人がいたのだということが、この本を読めばわかります。

 人間は死ぬ前に何かに残しておかなければ、すぐに忘れ去られてしまうものです。人間の記憶は当てになりませんから。その人生を文章に残すことで、機会があればそれを読み返し、香川俊介という人間をその人の心のなかでよみがえらせることができます。

「経営マインド」と「パブリックマインド」の両立を

 今回お話したことをまとめましょう。松下幸之助は老人の道楽で政経塾をつくったとしばしばいわれますが、老人の道楽などではまったくありませんでした。松下は真剣でした。政経塾1期生の若者を85歳の人間が叱るということは、真剣でなければできません。松下幸之助は、「猫に小判だ」といって真剣に叱ったのです。

 その原点は、敗戦のときの理不尽な経験です。座敷牢に閉じ込められたような状況となり、全財産と事業までをも奪った、公への怒りです。政経塾はそのときの怒りから始まっています。

 松下政経塾出身の議員数は公明党よりも少し多い程度にまでなりましたが、それを松下幸之助は手放しでは喜ばないだろうと思います。松下がめざしたのは、政治の名人、宮本武蔵のような名人をつくることでした。しかし、政経塾からはそうした政治の名人はまだ出ていません。松下幸之助は草葉の陰で「こんなはずではなかった」とおっしゃっているのではないでしょうか。

 また、今回は、中国の鄧小平の例を挙げました。鄧小平は間違いなく、松下幸之助から多くのことを学んでいます。天津に松下電器の工場ができたとき、何度も視察に訪れ、どうすれば金が回るか、需要はどうやって生まれてくるのか学んだはずです。商売がわかる政治家でなければ、何事も成し遂げられないとわかっていたのでしょう。

 松下政経塾を設立した松下幸之助も、商売が理解できる「経営マインド」の部分と、公の心である「パブリックマインド」の部分を、どうすれば両立できるかを大きな課題としていたように思います。

 2012年に尖閣諸島を巡って日中が紛糾したとき、パナソニックと名前を変えた松下電器の工場は焼き討ちに遭います。松下電器という名前のままであれば、焼き討ちに遭うことはなかったかもしれないと思うこともあります。いずれにしても、松下幸之助が鄧小平との約束を果たすべく精魂を傾けて中国につくった近代工場が、今や焼き討ちに遭う時代になったのです。国家経営を誤れば全員が不幸になるという典型例です。松下幸之助の原点にある問題意識が、今、あらためて浮かび上がっているように感じられてなりません。

 また、リー・クアンユーですが、彼は非常に秀才でプライドの高い人物であって人前で絶対に涙を流すような人ではありませんでしたが、その彼が、シンガポールがマレーシアから追い出された際に、涙の独立演説をしたわけです。そしてその危機感を忘れずに、人を育て、シンガポールを現在の地位にまで導いてみせました。

 他方、鄧小平の戦略は「韜光養晦(とうこうようかい)」です。「能ある鷹は爪を隠す」という意味ですが、この言葉どおり、鄧小平はできるだけ下手に出て、まずは経済を優先しています。こうした韜光養晦の戦略で、自ら日本にも来ましたし、アメリカにも行きました。しかし今の中国を見ると、江沢民以降に行ってきたことは、まるで逆のように思えます。

日本を弱体化させた2つの間違った選択

 日本の霞が関文化の悪い部分は、大蔵省の接待疑惑以来もう散々出てきています。しかし、その1割の悪い部分をもって、残りの9割を否定してしまってはいけません。そうすると、新しいオペレーションの仕組みをつくる前に、その土台を打ち壊してしまうことになるからです。

 1990年代は冷戦が終わって、日本にとっても世界にとっても非常に大きな転換点になりました。この時期にリクルート事件が起きましたが、そこで日本は2つの間違った選択をしたのではないかと思えてなりません。

 1つは霞が関の省庁再編です。郵政省と総務省、自治省を一緒にしても、何も生まれません。会社の組織で考えれば、まったく違う会社を1つのオペレーションにしてしまったということです。こんなことはありえない話です。

 もう1つの間違いは、小選挙区制の導入です。日本人はやはり白黒をはっきりつけたがらない、両義性の国民です。「あれも良い、これも良い」という日本人の両義性の社会に、小選挙区制を導入したのは正解だったのか、と感じます。

 中選挙区制のまま、5人ほど議員になるという場合、商工族なら商工族、農林族なら農林族と、それぞれの現場ができてきます。それが日本の政策の根強さや豊かさ、多様さを生んできたのではないか。一方、小選挙区制では、何かを強く主張する人は、51パーセント以上取れなければ落選してしまいます。

 これまで日本人が「あれも良い、これも良い」という両義性に支えられてきたことを忘れさせてしまったということが、小選挙区制の大きな弊害であり、限界ではないかと思います。