革命家・予言者
本書は「革命家・予言者としての松下幸之助」という全く新しい別次元の解釈を示してくれました。彼がPHP理念を唱えたのは一九四六(昭和二十一)年、日本は敗戦で全てを失い、三百十万人もの戦死者を出し、人々は将来への希望もなく、焼け野原で食うや食わずの貧しさの只中にいた時期でした。「繁栄を通しての平和と幸福」というその崇高な理念も、当時の日本人にとっては「お伽噺」や「夢物語」にしか思えなかったでしょう。しかし、このような時代にあって、繁栄に向かう決意と希望を掲げ、それを実践した彼は、もはや事業家の領域にとどまらない革命家として捉えることが出来ると思います。また、この時代の誰の目にも映らなかった日本の未来の繁栄の姿を見据えていたという意味では、ある種の予言者としても捉えることが出来るでしょう。
さらに、PHP理念の提唱から三十年余が経過した一九七九(昭和五十四)年、松下政経塾設立時に起草された趣意書の中にも、その当時の日本の現状を憂うこんな一節があります。
《日本の現状は、まだまだ決して理想的な姿に近づきつつあるとは考えられない。経済面においては、円高をはじめ、食糧やエネルギーの長期安定確保の問題など国際的視野をもって解決すべき幾多の難問に直面し、また、社会生活面においては、青少年の非行の増加をはじめ、潤いのある人間関係や生きがいの喪失、思想や道義道徳の混迷など物的繁栄の裏側では、かえって国民の精神は混乱に陥りつつあるのではないかとの指摘もなされている。これらの原因は個々にはいろいろあるが、帰するところ、国家の未来を開く長期的展望にいささか欠けるものがあるのではなかろうか。》
時代背景の多少の相違はあれど、この認識は、まさに現在の日本そのものだと感じます。いま読み返しても、その内容は全く古びていません。この趣意書が書かれた年は、戦後から続いた高度経済成長期が過ぎ、日本が経済大国としての確固たる地位を築いていた時期であり、バブル景気の絶頂期が始まる前にあたります。
にもかかわらず、幸之助は、まるで平成末の日本の混迷の理由を言い当てるかのように、このときすでに斯様な警鐘を鳴らしていたのです。しかもここでは、日本が物的繁栄を成し遂げた後の精神の混乱について憂えています。まさに驚くべき先見性であり、「現在に生きる予言」であったと言えるでしょう。
高貴性と不良性
では、なぜ当時の誰にも見えなかった日本の未来の姿が幸之助だけには見え、そのような時代に斯くも崇高な理念を掲げることが出来たのでしょうか。執行先生は、その理由について、彼の魂の中に高貴性と不良性(野蛮性、反骨精神)の両輪が平衡をとって存在していたからと、本書の中で指摘していますが、さらに考察を加えてみたいと思います。
まず、幸之助が呻吟と悲哀の態度を貫き続ける「反自己の人」だったことが、高貴性に対して深く関与しているのだと思います。「反自己に苛まれる人は、次には足らざるものに邁進する人となる」という本書のご指摘通り、彼が「自己観照」を怠らず、決して自己に満足せず、常に渇望感を持ち、絶えず求め続ける人であったからこそ、より気高い崇高さを持ち続けられたのではないでしょうか。
また、丁稚奉公時代や大阪商人として鍛えられたころに、石門心学を通じて会得した武士道の精神が、彼の高貴性と不良性の根源にあるというのも、本書のご指摘の通りでしょう。武士道の精神の本質とは、他者のための自己犠牲であり、自分の命よりも信仰が大切だと考えた原始キリスト教にも通じるところがあります。そしてこれは、司馬遼太郎が言った「道徳的緊張」という言葉とも、ある意味で非常に近い感覚だと感じます。「道徳的緊張」とは、「公のために自分を犠牲にしてもやらなくてはならない」というような、社会に対する使命感のことです。明治の指導者にあって、昭和の指導者に欠如していたものであり、社会が背筋のピンと伸びたものになるか否かの分かれ道は、指導者の「道徳的緊張」の有無であるということが、司馬遼太郎の結論でもありました。
こうした自己犠牲の精神や命懸けの覚悟を伴った憂国の思想であったからこそ、彼の理念は後世に残り、人々に感銘を与えるほど、崇高なものになったのだと思います。
呻吟と悲哀、そして崇高へ
さらに、彼が二十歳になるまでに両親・兄弟のほとんどを亡くしているという不幸な境遇や、丁稚奉公時代から、非常に厳しい大阪商人の世界を生き抜いてきた経験、そして戦後、GHQから理不尽な財閥指定を受けた際の公への怒り(公憤)も、彼の不良性の形成に強く影響していると思います。まさに、呻吟と悲哀を味わい尽くした彼の人生と体験の中から、たたき上げの反骨精神ともいえる不良性が生み出されたに違いありません。このような特異な経験を通じて彼は思索の旅を続ける宿命にあったのだと思います。しかしそのことが彼を開眼させ、全体を見通す眼力のある大人物へと熟成させたのではないでしょうか。
私は松下政経塾の二期生として、幸之助に直接薫陶を受けましたが、はじめて会ったとき彼に対して抱いた率直な印象は、「笑顔の中でも目が笑っていない。なんという怖さと迫力を持った人だろう」というものでした。
例えば、一年間の研修を終えた塾生に対し、彼が全力で叱責したことがありました。「君らは辛酸をなめていない。つまり君らは心眼が開けていない。だからわからないのだ。人の育て方や人の使い方、お得意先に対しての仕事の仕方、そんなものは(販売店の店主が)全部持っている。猫に小判という言葉があるだろう。猫に小判ではだめだが、君らはその猫に小判のほうだ」と言い放ったのです。
顔面蒼白の塾生に対し、叱り続ける彼の形相は、世間がイメージする「経営の神様」とは一線を画するものでした。後にも先にも、私は人生の中であれほど怖い人に会ったことがありません。それほどに真剣で厳しい叱責でした。しかし、いまにして思えば、あの怖さは、若い塾生に対して本気で伝えたいことがあったという証であり、その背景には、日本の将来に対する強烈な危機感があったのだと感じます。
現代の日本では、良いものと酷いものとを極端に分けてしまう傾向があります。しかし、この二つの交錯なしには、物事の本質を捉えたり、事を成すことは出来ません。崇高で気高い理念は、清濁併せ呑むことによってそそり立ちます。幸之助は、高貴性と不良性という両義的な精神性の中で、善悪をこね合わせ、そこから光輝くものを作り出す力を持った稀代の人物であったと言えるでしょう。
経営マインドとパブリックマインド
私は、執行先生の人生体験や生きざまが、幸之助が辿ってきた人生と共通することが多々あると強く感じました。だからこそ、執行先生は魂と魂が触れ合うことが出来、彼の全く新しい解釈が出来たのではないかと思います。
いまの日本は、執行先生の言葉を借りれば、自分の欲望だけを追求する我利我利亡者に占められた世界になってしまっているように思えます。経済同友会代表幹事で「哲人経営者」と呼ばれる小林喜光氏は、「敗北日本、生き残れるか」というインタビュー(『朝日新聞』二〇一九年一月三十日朝刊)の中で以下のように述べています。
《矜持を持つ財界人が少なくなりました。(略)経営者として、あるいは社会的公器のリーダーとして、社会に対して強く関わって変革していこうという意志を持った人の絶対数が減ったんです。かつて土光敏夫さんが臨時行政調査会を率いて行政改革を進めた頃、財界には強い権威がありました》
政治・経済・経営・教育も含め、現代のリーダーには、社会と向き合い、社会に問いかける行為自体が不足しているように思えてなりません。岐路に立たされたいまの日本において必要なのは、経営マインドとパブリックマインドの両面を併せ持ち、公・社会に向けた覚悟と矜持を持つリーダーの輩出であると感じます。
私は、本書に描かれた「革命家・予言者としての松下幸之助」という解釈に大いなる感銘と強烈な示唆を受け、松下政経塾の副理事長として、次に迎えるであろう大変革の時代に、立ち向かうことが出来る真のリーダーの育成に微力ながら尽力していく所存です。