(3)原敬と松下幸之助…成功の要点
次の時代は絶対にアメリカだ…私費で渡米した原敬の真骨頂
●スーパージェネラリスト原敬の猛獣性
もう一つの猛獣型が、戦前に活躍した原敬です。原敬は南部藩という賊軍の出身でした。もともとは家老の息子だったのが、(維新により)藩自体がつぶれてしまった。彼は次男坊で、(東京へ)勉強にやって来たものの騙されてしまう。そこでフランス人神父の書生を務めて、フランス語を学びながら日本の通訳をして書生をしながら、(人生の)組み立てをしていきます。
原敬はどういう人かというと、スーパージェネラリストです。彼は28歳ぐらいで外務省に中途入省して、30歳の頃にはもう通商局長になる。39歳のときに陸奥宗光に引き上げられて次官となり、外務省の頂点に立ちます。
その後、陸奥宗光が亡くなると、大阪毎日に入社します。主筆として入社し、(翌年には)社長に就任して売上を3倍にする。また、同じような形で古河鉱業にも招かれ、副社長に就任しますが、実質的には社長として活躍し、隆々たる会社にしています。
政党人としても、伊藤博文が立憲政友会をつくったときに、初代幹事長として招かれます。その後、西園寺(公望)を総裁にいただくと、日露戦争後、桂内閣の後の西園寺政権を実質的に内務大臣として支え、第二次政権まで組閣させます。
原敬は(明治維新のときは)賊軍の人だったため、徹底的に山縣有朋と対立します。最終的には「米騒動」が起こったため、山縣も原敬に政権を渡さざるを得ないことになります。
原敬の率いた立憲政友会は、現在の自民党の始まりです。11月4日の夜7時は、原敬が東京駅で暗殺された時間です。そのため、昔は自民党の人たちがこの日によく東京駅を訪れていましたが、ついに昨年(2023年)は、齋藤健一人しか来なかった。自民党の中でさえ、自分たちのもとをつくった原敬のことが忘れられてしまうのか、と感じ入りました。
●アメリカを私費で見聞した原敬の真骨頂
原敬の人生は、三つの分野でスペシャリストだったためにスーパージェネラリストとなりましたが、やはりかなりの苦難がついて回りました。(第一次西園寺内閣で)彼(原敬)は内務大臣が終わった後、私費で、今のお金で2億円ぐらいかけて、主にアメリカを見に行きます。外交官としてフランスの代理公使もやっていたので、フランス語も堪能だったので、ヨーロッパは知っていたのですが、アメリカがこれからどうなるのかを実地に見に行くということで、これが原敬の原敬たる所以かなと。
原敬は外務省事務次官の出身ですから、普通だと領事や領事館、大使館にいえばアテンドしてもらえます。なぜ自費で行ったかというと、外務省のお仕着せの人にあってもしょうがない、どうしようもない政治家にはなるべく会いたくないと考えていたからです。
それよりも自分が見たいものはマンハッタンのビルラッシュの現場であり、GEの工場やカーネギーの鉄工所を見たい。そのように、みたいものが全然違うわけです。アメリカは南北戦争からわずかの間にどうして世界最大の工業国になったのか。それを見たいというわけです。
これは1908年くらいの話ですが、彼の見たいものは明確でした。政治家で唯一会ったのはセオドア・ルーズベルトだけです。あとは、「アメリカの持っている成長のエネルギーは、いったい何なのか」という自分のテーマを持って、入国していきました。そして、「次の時代は絶対にアメリカだ」と確信するわけです。アメリカとはできるだけ一緒にやっていかなければいけないと決意しています。
●自分で自分の絵図面を描く力量
原政権は1918年から1921年で終わります。原敬が65歳のときに暗殺されてしまうからです。その後、アメリカのカリフォルニアで「排日移民法」が施行され、渋沢栄一が涙を流して悔しがります。「こんなことになるぐらいなら、ずっと(攘夷を唱えた)幕末維新の志士をやっていたほうがマシだった」という嘆きだったようです。そのあたりから、日本とアメリカの関係が変化し、アメリカはできるだけ日本を抑えようとするし、日本も「排日移民法」を踏まえて、アメリカに対する印象が変わってくるわけです。
非常に残念に思うのは、原敬のように自分で半年間ものスケジュールを立て、自分のカネで見たいところを見た上で、「これからは絶対にアメリカの時代だ」と確信した人、アメリカの普通の人が持っているエネルギーを感じ取って、「アメリカの時代だ」と言った人(の不在)です。
やはり半年間のスケジュールを自分で立て、実際に行った上でどう結論したかをいうところが、半端でなくすごいと思います。別荘や自宅を建てる代わりに、2億円でアメリカを見に行ってしまう。それほどの確信を持つあたりが、(原敬の)本当に卓越したところだと思います。「自分で自分の絵図面を描く」といえばいいでしょうか。
幕末の佐久間象山や横井小楠も、やはり絵図面(を描いた人物でしょう)。佐久間象山は当時日本一の儒学者として、圧倒的ナンバーワンになった上で、時代が変わると「オランダ語だ」といって、オランダ語をゼロから学び直す。2年間ほどで習得したのはオランダ語のためのオランダ語ではなく、自分で大砲をつくったりするための語学でした。その後、彼はいろいろなものをどんどん作り始めます。結局、彼が得た結論は「西洋は技術だ。しかし、自分が日本一の儒者だった東洋は、道徳では負けない」という枠組みをつくったわけです。
横井小楠は横井小楠で、日本(とアメリカ)の政体の形を整理して考え、アメリカ初代大統領ワシントンから始まる絵図面をつくった。それにより、それぞれどういう組み立てをすればいいかを自分で考えていったわけです。
●「仕組み」づくりに長けていた松下幸之助
モデルのある時代にキャッチアップするのは非常にたやすい。いわば受験勉強でいいわけで、解答があるのだから、それを覚えていけばキャッチアップにはよかったのだと思います。
しかし、自分で組み立てをしなければいけない時代、例えば松下幸之助が置かれた敗戦のときと同じような状況に置かれたらどうするか。松下電器が再創業したときに彼は何をやったかというと、やはりアメリカへ見にいくわけです。最初は2週間だった予定が結果的には3カ月になり、さらにもう一度行ったので、たぶん半年間ぐらい欧米を見て回っています。
そのときに「これからは一般消費だ」「家庭消費だ」という形で、アイロンやテレビ、洗濯機や冷蔵庫など、いろいろなものを見つけるわけです。そして、それをどうすれば実現できるかということを考え、自分で絵図面をつくっています。
松下幸之助の本当に卓越していたのは、仕組みづくりです。商売上オリジナルで行ったのは「ショップ店」でした。ショップ店が1万あれば、一気に1万個展示でき、それだけ売れる。5万店あれば、5万個売れるという仕組みを自分でつくった。これについては「熱海会談」ということで、起きつつあった反乱を収めるようなこともします。しかし、構造としては自分で考えたものです。
一度は死のうと思ったぐらいで、彼の人生を見て「幸せな人だ」とは、誰もなかなか感じないと思います。早くに小学校中退で、身体も弱い。丁稚に出されて親の死に目にも会えず、一度は成功したと思ったら、戦争にパーにさせられ、財産の全てが没収される。その上で復活するということなので、とてもこんな人生をやりたいとは思わないのですが、彼が最後にたどり着いたのは、結局「運がよかった」という言い方なのです。
●松下流「経営者の要諦」3箇条とは
(松下幸之助が言う)「経営者の要諦」は、「人間掌握力」と「宇宙の理法に則り」「運を磨く」です。人間掌握力は、政治家もたぶん同じだと思いますが、特に2番目の「いかに運をよくするか」というところで、自然界の自然律に合わせていくのがよいといいます。
「運をよくするにはどうすればいいのですか」というと、最後にはやはり「自己の最善を他者に尽くし切る」というような言い方になります。これは、田口(佳史)氏の言い方だと思いますが、「この人に何かを尽くしても、その人から(直接)返ってくることはない。しかし、回り回って(自分に)返ってくる」。そこが、非常に面白いところです。そして最後は、自然律すなわち運気の法則と合わせる、「徳を積む」ようなところが、成功の要因の9割ぐらいを占めると思います。松下幸之助のたどった人生は実に<猛獣型>の人生でした。
しかし、松下幸之助のつくった松下電器がどうなったか。彼が死んだのは1989年で、ちょうど昭和天皇と同じ年に亡くなりました。それから30年(以上)たって、松下電器は見る影もないような会社になってしまいます。
MCAから始まって、いろいろと同じような感じの悲劇が次から次へと起きてくる。1兆円かけて買った会社もうまくいかないし、プラズマや液晶もうまくいかない。最近では(2021年に)ブルーヨンダーを8500億円ぐらいで買ったものの、これも頓挫してしまいました。
やはり、このあたりの松下の凋落の歴史というのは、かなりこの30年の日本の歴史に近いのかと感じます。ちなみに松下幸之助が引き上げた人材は、やはり猛獣型の人たちが多かったと思います。そういうことで、実感値として自分の頭で考え、自分で矢弾にあたっても進んでいかないと、やられてしまう。そのような形のことがあるのではないかと思います。