編集長が語る!講義の見どころ
平安時代はどんな時代か~歴史の本質に迫る/関幸彦先生【テンミニッツTV】
2024/01/09
いつもありがとうございます。テンミニッツTV編集長の川上達史です。
あらためまして、能登半島地震で被災された皆さまに心からお見舞いを申しあげますとともに、1日も早い復旧をお祈り申しあげます。
いよいよNHK大河ドラマ「光る君へ」がスタートしました。
紫式部が主人公ということで、いうまでもなく「平安時代」が舞台です。ただ案外、平安時代がどんな時代かについて、よくわからない方も多いのではないでしょうか。
それこそ紫式部の『源氏物語』をはじめとする王朝文学のイメージから、「雅」な世界観が頭に浮かぶかもしれません。あるいは、「陰陽師」などの影響で、おどろおどろしい部分が想起されるかもしれません。しかし、貴族たちはどのような存在だったのか。そもそも、どのような政治が行なわれていたのかについて、明確なイメージが浮かぶでしょうか。
本日は、平安時代の歴史の「本質」について、関幸彦先生(日本大学文理学部史学科教授)にお話しいただいた講義を紹介いたします。
関先生が強調されるのは、平安時代というのは、400年にも及ぶ長期の時代であること。さらに、多くの方々が持っているイメージとはずいぶん異なって、外圧、あるいは疫病、内乱、騒乱など、様々な危機が連続していた時代だということです。しかも、国際情勢の大変動により、日本国内も大きく激変していく時期なのです。
はたして、どのような「歴史の真実」が浮かび上がってくるのでしょうか。
◆関幸彦:平安時代の歴史~「貴族道」と現代(全9話)
(1)日本の歴史における平安時代の意味
平安時代とはどんな時代か?日本史上最長400年が持つ意味
https://10mtv.jp/pc/content/detail.php?movie_id=5201&referer=push_mm_rcm1
関先生は最初に、「平安時代は400年にわたるが、10世紀を挟んで2つに分かれる」とおっしゃいます。ざっくりいうと、10世紀以前は「古代」、10世紀以後は「中世」という枠組みになるのです。
それこそ聖徳太子が活躍した時代から10世紀までの日本は、隋や唐を手本とした中央集権の「律令国家」をめざしていました。しかし、その「お手本」であった唐が、755年の安禄山の反乱(安史の乱⇒755年~763年)以降に衰退し、907年に滅亡します。
周辺地域にも圧倒的な影響力を与えていた中華帝国が衰亡することにより、東アジアの各地域は、それぞれに変化していくことになります。日本も「お手本のない時代」に突入するのです。
関先生は、その結果、天皇の名前も変わっていったとおっしゃいます。はたして、どのように変わったのかについては、ぜひ講義の第3話をご参照ください。
さて、中央集権の「律令国家」から、日本はどのような変貌を遂げたのか。それを象徴的に表わすのが「請負制」という言葉です。
天皇が中央集権で何でもやっていくのではない。公家、武家、宗教権門など、さまざまな勢力の専門に任せるかたちで、朝廷がさまざまな役割を「請け負わせる」……。だんだん分権的なあり方になっていくわけですが、そのあり方を「王朝国家」といいます。
公家社会でいえば、摂政や関白が実権を振う「摂関政治」が行なわれるようになります。このあり方も、天皇の政治に代わって政治を「請負」っているともいえます。
摂関政治によって、いうなれば実質的には、天皇が「権力」ではなく「権威」の存在になり、一方、藤原氏が摂関家として矢面に立つかたちで権威としての天皇を守ったのだと、関先生は指摘されます。現代の「象徴天皇」のあり方に通じる原点が、そこにはあると。
関先生は、この点で、明治時代以降の歴史の「常識」を見直すことの必要性もご指摘くださいます。明治政府は、西洋列強に対抗すべく天皇親政の中央集権国家のあり方をめざしたので、どうしても歴史もその価値観にとらわれてしまっている部分があるというのです。
だから、何となく、摂関政治についても「天皇の権力の簒奪」という側面が強調されすぎているというのですが、たしかにご指摘のとおりでしょう。
関先生は続けて、「三平時代」と「三道時代」について言及されます。三平時代とは、藤原時平、その弟の仲平、その次の弟の忠平らがいた時代。三道時代は、道長の兄弟たち(道長のすぐ上の兄の道兼、さらにその上の兄の道隆)の時代です。
藤原時平は、菅原道真を左遷したことで名高い人物で、西暦871年に生まれて909年に没しています。一方、藤原道長は966年に生まれて1028年に没していますから、約百年の開きがあることになります。
この三平時代から三道時代にかけて、ライバルたちがどんどん排斥されていきます。菅原道真の左遷は象徴的ですが、大伴氏や紀氏なども失脚に追い込まれます。さらに、三道時代になると、同族同士の競争となります。関先生はこうおっしゃいます。
《今までは藤原氏の北家が自分たち藤原氏の一門の勢力を、力を集中させながら他の一族が入り込むことを阻止するという、ここに全エネルギーが集中していた。いわば藤原氏が共同で、他者を排斥していく。ところが、やがて三道の時代になってくると、三道のそれぞれ、道隆、道兼、道長、それぞれがライバルの関係の中で競争の原理というかたちで一族の中での動きが顕著になってくる。その中の競争で最終的なチャンピオンシップを握ったのが道長だった》
さらに関先生は、「院政」についてもご教示くださいます。一般に歴史の授業などでは、摂関政治の時代を経て、院政の時代に入ると学びます。しかし、「上皇」がいらっしゃったり、摂政・関白が置かれたりしたのは、明治時代になるまで変わらぬ姿でした。
このようなあり方についても、関先生は縦横無尽にご解説くださいます。
そして、最後に関先生が指摘されるのは「貴族道」です。これは、「武士道」に対置する言葉として、関先生が造語されたものです。
とりわけ武士との対比において、貴族は「女々しい」「よく泣く」「かっこ悪い」などと評されることがあります。しかし逆にいえば、それは「武力に訴えず」「最後まで粘り強く」「論理を持って正々堂々と道筋を伝えていく」あり方といえるのではないか。
さらに貴族(公卿)たちが会議をして決定するときには、阿吽(あうん)の呼吸で全体の意見を調和させるように独特のしきたりもありました。
その詳細については、ぜひ講義の第8話、第9話をご覧くださいませ。
冒頭に述べたように、「お手本」がなかった時代に、それまでの中央集権とは違う体制をつくりあげた平安期の歴史は、これからの日本にも大いに参考になることでしょう。当時の国際情勢のなかでの日本のあり方や、その後の「武士の時代」に至る道のりも、非常に明快に見えてくる講義です。ぜひご覧ください。
(※アドレス再掲)
◆関幸彦:平安時代の歴史~「貴族道」と現代(1)
https://10mtv.jp/pc/content/detail.php?movie_id=5201&referer=push_mm_rcm2
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編集部#tanka
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