●己事究明の道と「仏典漢訳」
藤田 禅とは「己事究明(こじきゅうめい)」の道であると。「こ」は自己の「己」、「じ」は事件の「事」。それらを究明していく。「己とは何か」「本当の己とは何か」ということを、どこまでも究明していく。それを道とし、自分の生き方として歩いていくのが禅だというのが、私が最初に禅と出合ったときに、ある老師からの提唱の中で聞いた言葉でした。
私は当時、心理学の博士課程の学生でしたが、「私がやりたいのはそういうことだったんだ」と感じました。本当にやりたかったのは学問としてやるのではなく、生き方としてそういうことをやる。本当はそれがやりたかったというのが遅まきながら分かったので、大学のキャンパスというアカデミックな世界の中ではなく、禅の伝統の中でやろうと覚悟が決まりました。それで(大学院を)中退してお寺に入った。それが、私の場合のシフトということになります。
―― 今の己事究明という言葉に、また大きなヒントが一つあるように思いますが、少し戻って中国の伝統とインドの伝統の融合という話をお聞きしたいと思います。先生がご本でお書きになっていたのは、インドからたくさんの経典が中国にやってくると、当然、漢訳される(中国語に訳される)とのことでした。
藤田 はい。
―― そうなってくると当然、まずそれを研究していく(ための)学問的な仏教、学問としての仏教が非常に隆盛を誇ることになった。その中で、仏教の原点に回帰するようなものを求めて、禅というものが生み出されてきたのではないか、と。ある意味ではプロテスタンティズム的なものも含めて、「本当の仏教とは何か」「本当の宗教とは何か」ということで生まれたのではないかとお書きになっていました。そういう要素は、やはり非常に強いのですか。
藤田 そうですね。最初はまず経典の翻訳という段階があります。その次は、翻訳された経典を学問的に勉強する。どういう意味があるのか、と哲学的な探究が起こるわけです。それはそれで貴重なことだと思いますが、そうなると、仏教というものは「経典の中にある」というようなことになってくるわけです。
でも、あるグループの人たちがブッダのやったことに注目して、「ブッダはそういうことをやっていないではないか」ということに気づく。ブッダの生き方、ブッダの語ったことが口伝でずっと残されて、長いあいだ...