私たちは現実に痛みをもたらす「苦」は感じても、おおもとの「惑」は見えない、私たちの認識は欲望に曇らされ、真実の姿が見えないからだ。それは、いわば酔っ払った状態だと一照師はいう。そのままで修行を続けるより、まずは「覚める」訓練を重ねるのが禅であり、「目覚めの宗教」ということだ。ブッダの遺言は「覚醒者」として、後世に「後に続け」と促すものだった。(全7話中第6話)
※インタビュアー:川上達史(テンミニッツTV編集長)
≪全文≫
●「第一ボタン」を直さない限り「惑→業→苦」のサイクルは続く
藤田 私たちはふつう「苦」しか見ないので、「業」ぐらいは振り返るけれど、「惑」がなかなか分からないのです。私が今まで「第一ボタン」といってきたのは、このことです。これを直さないかぎり、また「惑」が「業」を生んで「苦」になるサイクルがずっと続くわけです。
―― 前回の先生のお話でいえば、「惑」というのは、例えば好きなものに執着してしまったり、嫌いなものを排斥しようとしたりすることですか。
藤田 そうです。好きなものについては、「好きなものと嫌いなものがある」といっているけれど、これを「好きなもの」と「嫌いなもの」に見ている「私」があるわけです。
これ(=火箸)を「火箸」にする私の行為があるように、これ自体がいいものを持っているのではなく、これをいいものだと思う、思い込んでいる「私」が問題になっているのです。
だから、このもの自体に問題があるのではない。私たちはだいたい「こいつが悪い」「あいつが悪い」と原因を外に探し、「こいつをなくそう」あるいは「これがあれば、もっと幸せになれるだろう」と引き寄せたりしています。そういう基準を持っている「ここ=私の心」にこそ問題があるのですが、この「惑」は近すぎて見えないのです。
―― そうですね。
藤田 また、「惑」自体は痛くもかゆくもない。「業」になって初めて痛みや苦しみが浮かぶので、そこで分かるのです。怒りや悲しさは分かりやすいから、なんとかしようと思うのですが、「惑」自体は痛くもかゆくもない。これに気づくというのはなかなかレベルが高いし、難しいのです。
●現世の現象で「酔っ払っている」私たち
―― 坐禅によって、それ(惑)に気づくきっかけが得られるわけですか。
藤田 そうですね。でも、私たちはある意味、「のぼせた状態」で手や足を動かしたり、口を動かしたりしている。つまり、酔っぱらっている。けれど、本当に酔っぱらっている人は、自分が酔っぱらっていることも分からないぐらいに酔っぱらっているでしょう。
―― そうですね。
藤田 だから、友だちが「おまえ、もうずいぶん飲んでいるから、それはもうやめとけ」と言ったら、「全然大丈夫。酔っぱらっていない」と。それが、酔っぱらっている証拠ではないですか。
人間はみんな、いろいろな思い、自分の考えという...