●仏教に逆行する「今ないもの」への欲望と行動
―― (最初の2回で)歴史や歩みについてうかがったところで、いよいよ「禅とは何か」にいきたいと思います。
先の話で、先生から非常に印象深い言葉がありました。「悟りというのは神秘的な体験などではなく、自分の生きる道が定まるということ」というお話でした。一般の人は、禅をする=坐禅を組むことで、何か神秘的な体験がやってくるのではないか(と思われている)。悟りというのは、イメージできないけれどとてつもない何かに出会えるような…。
藤田 だから、(それは)いいものなのです。
―― 境地ということですね。それをめざしてやるものなのか、それが修行なのか。そう先生が問われた通りのイメージを持っている人も多いと思いますが、これは違うのですか。
藤田 違うと思います。だいたいそういうのは物欲しさの根性ではないですか。
―― そうですね。
藤田 「これさえあれば、ぼくは素晴らしくなる、もっとマシになる、悩みがなくなる」というようなのは、みな「ぼく」ということが前に出ています。この「ぼく」が問題なわけです。多くの場合、私たちは何か学ぼうとかしようと思うときに、それは自分の得になるからだという意識がある。
もちろんそれは「お腹いっぱいになる」とか「女の人にもてる」といった俗っぽいものではないかもしれません。今よりももう少し高尚なものを求める心かもしれませんが、それでもやはり「今はないものを欲しがっている」ことに変わりはありません。
今ないものを欲しがり、それを目標として、何かいい方法を学び、欲しいものを手に入れて喜ぶという構造には変わりがない。そして、仏教の中には、そういう構造自体が人間の大きな問題だという認識があるのです。
●第一ボタンを掛け違えると、がんばっても帳尻が合わない
藤田 中でも特に禅はそれを問題にしていると私は思っています。だから、この構造自体をいったん停止するというか、そうではない生き方をすることが課題なわけです。
でも、私たちはきちんと学んでいないかぎり、この構造自体を疑うことは普通ほとんどない、吟味することもないから、全てをこの構造の中で考えています。だから、皆さんは一所懸命坐禅したり修行されたりしていますが、「修行すると何が手に入るのですか」というようなことを質問する人が多いわけです。
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