●「火箸」は何に使えるか、関係性で縁起を理解
藤田 「空」の話が出たからいいますが、例えば火箸、これを火箸だと私たちは思っていますが、置いていたら火箸ではない。私がこれをこうするから火箸になっているわけで、私の行為抜きに無関係に火箸があるのではない。例えば、もし私がこれをこうやって(突くまね)したら……。
―― 武器になってしまいますね。
藤田 武器になってしまうし、こうやって(背中を)掻いたら何?
―― 孫の手になりますね。
藤田 孫の手になる。そして、こうして字を書いたら、ほら、筆記用具になるわけです。
―― はい。
藤田 そのように、これを火箸にしているのは、私の行為と無関係ではないわけですよね。こういうことが、縁起的な理解の仕方です。
それで「火箸さ」というか「火箸性」はこれ(=火箸)にあるわけではなく、私の行為がそれを生みだしている。こういうのは関係の中で生まれてくるわけじゃないですか。置いてしまうと、これは何物でもないし、美術品でもいいわけです。
―― そうですね。
藤田 そうです。例えば骨董品屋さんが来て「これはいくらぐらい」と値踏みすればそういうものだし、私は「これはどこで買ったのだろう」と思ったりする。関係次第で全く違うものになる。そういうことを抜きに、これが単独で「火箸している」わけではない、「火箸である」わけではないという理解の仕方ができるわけです。
●私はどんな存在か。役割を奪い、与える「空と縁起」
藤田 さらに、それは火箸の話に留まらず、自分自身に関しても同じように考えていける。
―― 会社の中で働いていれば会社員だけれど、よく言われるように、例えば子どもがいれば、父親なり母親になると。
藤田 そうです。
―― 全然役割が違うではないか、と。
藤田 そうです。ですから、それらと別に、そういうものとはいっさい関係のない「私」みたいなものがコロッとあるわけではないのです。どれも私だし、どれも全てではない。そういう見方を自分にもしないといけないし、人にもしないといけない。そういうのが空という考え方であり、空は否定的な側面をいっていて、「縁起」はその肯定的な側面です。「そういうあり方で、あなたがある」というような言い方ですね。
だから、空は奪うための道具で、縁起は与えるための道具。
―― そこが違うわけですか。「...