●「私」を主格から与格へ変容させる
藤田 私たちは普通、全部自分を「主語」にして考えています。それは文法用語で「主格」といわれるもので、「私が」という、SVOのSです。
しかし坐禅では、例えば「私が坐禅している」では坐禅になっていない。「私が走っている」「私が飯を食っている」のと同じ構造のことをやっているだけなので、そこには何の反転もないわけです。
坐禅というのは、「主格」としてそれまでずっと生きてきた私、今も(主格として)生きている私が、廃ってしまうことです。私が廃ってしまうのは、私が消えるのではありません。私は「主格」ではなく、「与格」になる。
この「与格」は、日本語では「私に」というふうに表現されます。坐禅は、主格であった私が与格になっていると、今は表現しています。
例えば「私が呼吸している」では、私が主格になっています。このように「ス~、ハァ~、ス~、ハァ~」するとか、いろいろな呼吸法があります。これは、私が呼吸法を自分の体で起きている呼吸に当てはめようとしているわけですから、私が主格になっています。坐禅の呼吸は、まったくの自然呼吸で、身体に任せて呼吸しているので、私は与格になる。「私は呼吸が起きる場所になっている」「私に呼吸が起きている」という具合です。
だから「私」というのを使うのですが、「主格の私」が「与格の私」に反転または変容してしまっているわけで、この変容というのが修行の大事なところです。
箒(ほうき)で掃くときも、「俺が箒を使って(掃除を)やっている」のではなく、その状況の中で箒はこうしていて、「箒の一部として私がやっている」という少し変な言い方になるわけです。言葉の使い方としては変になる。なぜかというと、言葉というのは、私を主格にして「ああだ、こうだ」を言う。言ったり考えたりするのは、言葉がそのためにつくられたからですが、言葉を使って「私」が与格になったときの様子を表現しようとすると、変な表現になる。「呼吸が私に起きている」というように言わなくてはいけませんし。
でも、そういう表現(が世界に)はあるらしくて、例えば「風邪をひく」というのも「風邪が私にやってきて、留まっている」というような表現をする言語があるらしいのです。怒るときも、「私は怒っている」と言いますが、私は好きで怒っているわけではなく、怒らされてい...