●近代日本の社会を文学者がつくってきた
こんにちは。文芸批評家の浜崎洋介です。今回、テンミニッツTVで小林秀雄と吉本隆明についての話をしながら、文学が社会にもたらす役割や、あるいは文学がなぜ今までわれわれにとって重要な位置づけをされてきたのかということを、皆さんと一緒に考えたいと思ってやってきました。
ということで、まず最初に、それぞれ10分の構成なので、本当に手短にお話をする必要があると思っています。小林秀雄と吉本隆明(たかあき)、あるいは吉本隆明(りゅうめい)と言う人もいますが、彼らはどういう人だったのか、それを最初に見ておきたいと思います。
結論からいうと、実は、右といわれている小林秀雄と、左といわれている吉本隆明ではあるのですが、ともにある種の「断絶」を乗り越えるという主題を持っていただろうと思っています。
ただ、いきなり断絶を乗り越えると言っても、何が何だかよく分からないと思いますので、まず近代日本で文学者が持っていた役割というか、担っていた課題、それを少しだけご紹介したいと思っています。
例えば、名前としてたぶんご存じだと思うのですが、夏目漱石、森鷗外は、誰もが聞いたことがある。あるいは小林秀雄、これもだいたい聞いたことがあります。福田恆存(つねあり)くらいにいくとちょっと微妙なところになってきます。あるいは吉本隆明、これも「戦後最大の思想家」などといわれることがあります。
さらに三島由紀夫とか大江健三郎になれば、ノーベル文学賞を受賞するかしないかという話でしたが、大江健三郎に至っては、実際にノーベル文学賞を受賞しています。批評家でいうと蓮實重彦(はすみしげひこ)ですが、のちに東大の学長になる人です。あるいは柄谷行人(からたにこうじん)、この人も最近でいうところの一番代表的な批評家だと思います。
このような人たちが社会をつくってきたのです。なぜ、社会科学者でもない、政治家でもない、文学者が、社会をつくるのかというところが見えないところだと思いますので、そのあたりを少し見ていきたいと思います。
つまり、これも結論からいってしまえば、彼らは西洋ヨーロッパから輸入した近代思想というものをまず身に引き受けながら、しかし、それを単に言葉として器用にブロックのように並べるだけではなく、日本語のリアリティの中に定着させなければならなかったのです。これが文学者なのです。
近代文学の概念自体は、もちろんヨーロッパからやってきた。そのことによって自己表現をしようとした。しかし、その自己表現をそのまましようとしても、自然な日本語の中になかなか馴染んでくれないのです。
例えば皆さんご存じだと思いますが、われわれが普通に使っている言文一致体、つまり言葉でしゃべっているその言葉をそのまま文字に起こして、それで通用します。これは誰がつくったのかというと、ご存じの方も多いと思いますが、二葉亭四迷という人が最初にやったわけです。
逆にいうと、それまではどうだったかというと、しゃべる言葉と書く言葉は別々でした。ですから、書く言葉のときにはある訓練がどうしても必要だったし、あるいは演技が必要だったわけです。しかし、それはだんだんしっくりこなくなります。
●戦前と戦後を代表する2大批評家の挑戦
例えば簡単な話でいうと、江戸期まで使ってきた儒学や、あるいは武士道の価値観を担っている言葉をそのまま使って、レンガ造りの銀座の街を描写しようとしたり、あるいは銀座のカフェで男女がしゃべっている描写のときに、儒教的な概念がそこに入り込んだりしたらちょっと不自然です。まさにそれを変えていきながら、自分の言葉にしていく。それを文学者がやったということです。
ですから言い換えてみれば、社会的な文明は向こうからやってくるわけです。しかしながら、日本語は私たちの自然的な呼吸です。つまり社会のある価値基準と、そして私たちの自然な呼吸、これには1つのずれや摩擦があったのですが、その摩擦やずれを乗り越えて、その葛藤を越えて、それとどう折り合っていけばいいのか、そのような課題をまさに文学者は身に引き受けたといっていいと思います。
これ自体は小林秀雄がすでに言っていて、面白いことを言っているのです。「近代化したときに日本人の中で、実はこの課題を引き受けたのは、政治家でもなければ学者でもない、文学者だったのだ」とはっきり言っています。
もちろん、政治家は、西洋列強に伍する、明治維新によってどうにかこの国が植民地にならないようにしようといったときに、背伸びをして、西洋文明を引き受けなければいけなかった。そのときに、いちいち自然な呼吸を見る余裕がないわけです。そういう意味では、それ...