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小林秀雄“最後の弟子”福田恆存の言葉と日本人の「自然」

小林秀雄と吉本隆明―「断絶」を乗り越える(7)改めて問われる、日本人の「自然」

浜崎洋介
文芸批評家/京都大学・経営管理大学院特定准教授
情報・テキスト
小林秀雄が「伝統」と「直感」、吉本隆明が「大衆の原像」と「対幻想」という言葉でそれぞれ論考している“日本人の「自然」”。戦前・戦後を越え、昭和から平成へと向かう中、ニーチェから始まるポスト・モダニズムが堕落し、2000年代以降、ネオリベラリズムとグローバリズムの跋扈と生活世界の溶解が進む昨今、小林秀雄と吉本隆明の思想を再検討する意味は大きい。シリーズ最終話の今回は、柄谷行人、東浩紀、福田和也という3人の批評家を取り上げながら、小林秀雄が「最後の弟子だ」と言った福田恆存の言葉を引いて講義を締めくくる。(全7話中第7話)
時間:14:22
収録日:2023/04/07
追加日:2023/09/26
≪全文≫

●個人の生き方の根拠こそ「歴史的包括」である


 皆さん、こんにちは。文芸批評家の浜崎洋介です。

 小林秀雄と吉本隆明をめぐる講義、これもこの回で最後ということになります。今回は「改めて問われる、日本人の自然」と題しました。

 前回は相当絶望的な状況というか、絶望的な話をしましたが、それに対して私たちは何ができるのか、そしてその状況は今どうなっているのか、それを改めて見届けることで、次の一歩をどう歩み出せるのかといった議論を、今日はできればいいと思っています。

 まずは確認しておきたいのですが、前回、江藤淳の引用の部分で「包括的な歴史観」ということを言いました。抽象的な言葉ですから、少しだけ解説をしたのちに、すぐに話に入りたいと思います。

 つまり、これがないと私たちは自信が持てないのです。もう少し言います。これは私自身の個人的な人生の問題とかぶせていいと思います。要するに、私自身がどうやって生きてきたのか。例えば、幼稚園児に自信があるか。たぶんないでしょう。中学生、高校生にあるか。これもないでしょう。つまり経験値自体がないからです。右往左往しているということが関の山でしょう。それ自体は別にいいのです。しかもそれが思春期の意味ですから。

 しかし、それによって右往左往して、「あっちに行ってダメ、こっちに行ってダメ」で、そして「私の中点はここ」で、「私の生きる道はここだ」ということがだんだんはっきりしてくるのです。これがだいたい30歳とか、35歳とか、そのあたりかもしれませんが、そこまでの間の記憶が私の中にあります。ということは、やはり私の中に包括的な自分の生きてきた枠組みがあるということです。その枠組みを持っているがゆえに、私自身は、だから「こっちに進むのだ。自分の生き方はこれなのだ」と決めることができるのです。

 しかし、この包括的な歴史観がなくて、今、今、今の断片性しかなかったとき、私は40歳を過ぎても、あるいは50歳を過ぎても、いまだにどちらの方向に行けばいいのかが分からない、そういった不安に駆られるはずです。

 私は1回きりの人生しか生きていません。ということは、実のところ、最終的に利害得失を超えているような生存を生きているわけです。利害得失を超え、これだから、こちらの方向を選ぶがゆえに、ある充実を手に入れられるのだということは、私自身の直観や、私自身の生き方にしか、実は根拠がないということです。

 この根拠を「歴史的包括」といってもいいのではないかと思います。そして、それは個人の問題だけでなく、まさに日本の問題、あるいは国家という有機体がどうやって生きていくのかといったときにも、また問われる問題だというように私は考えています。

 さて、その上でまさに昭和から平成に向かう1980年代から1990年代に、何がいわれたかというと、その包括性というものを「大きな物語」といって、それが完全に終わった、そしてこれからは細かい物語さえいっておけばいい、といったような話がまかり通ったのです。

 それを題してというか、普通にいって、いわゆる「ポスト・モダニズム」といっていいと思います。これは、ニーチェという人をまず基準に言われた言葉です。例えばニーチェが『権力への意志』という本を書いていますが、その中で次のような一節を書いており、これがポスト・モダニズムの起源の1つといわれています。例えばこう言っています。

 「現象に立ちどまって『あるのはただ事実のみ』と主張する実証主義に反対して、私は言うであろう、否、まさしく事実なるものはなく、あるのはただ解釈のみと。(中略)世界は別様にも解釈されうるのであり、それはおのれの背後にいかなる意味ももってはおらず、かえって無数の意味をもっている。──『遠近法主義』」というように言います。

 これは少し断片的ですから分かりにくいと思いますが、遠近法主義というのは、ある視点を持ったときに見える遠近、つまり何が近くて何が遠いかを遠近法といいますけれども、ということは、視点によって遠近法はいくらでもつくり替えられるということをいっているわけです。つまり、世界は別様にも解釈されうるし、同時に世界の解釈は視点によっていくらでもつくり替えることが可能なのです。そしてそれは視点、つまり主観の問題だとはっきりいうことになります。


●グローバリズムの急拡大で加速する心の荒廃


 しかし、ここまで行くと、もうお分かりだと思いますが、私たちが背後に頼れるものはなくなります。AさんがAと言い、BさんがBと言い、CさんがCと言うと、それで終わってしまう世界です。つまり、バラバラに解体され、個人化していく言論というものが、このあたりから一気に加速し始めることになります。ここ...
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