●小林と吉本以降の批評に影響した1960年安保と高度経済成長
皆さん、こんにちは。文芸批評家の浜崎洋介です。前回まで、小林秀雄と吉本隆明の批評ということを見ていったわけですが、今日は小林、吉本以降に批評はどうなったのか、あるいは文芸とか文学の糸目はどうなったのかということを、2人の批評家に登場してもらって簡単に見ておきたいと思います。
代表的な2人です。江藤淳という人と、もう1人は柄谷行人ということです。今日はその彼らの履歴までは追うことはできませんが、批評の流れというか、批評の文脈みたいなものは確認できるのではないかと思います。
彼らの批評を見る前に、実は吉本隆明が1960年代に活躍しますが、それ以後にずいぶん時代が変化したということについて確認しておきたいと思います。
これは特に、1960年代の変化だったといっていいでしょう。つまり、それが結果として表れるのは1970年代ということになりますが、1960年代のまさに高度経済成長において、この国はやはりドラスティックに変わっていくことになります。
1つは、まさに1960年安保闘争があったわけですが、1960年安保闘争によって、安保が闘争を乗り越えたと言えるかもしれませんが、岸信介政権が1960年安保を通すわけです。そのことによって、9条安保体制というものが完全に出来上がることになります。
この9条安保体制を簡単に言うと、平和憲法といえば聞こえはいいのですが、つまり交戦権がないことと、戦力は持てないということになっていますから、自分たちでは安保ができません。ですから、日米安保同盟を結んでアメリカに助けてもらおうという話です。本当に助けてくれるかどうかは別なのですが、とはいえ、そういう体制が出来上がりました。
そのことによって対米依存というのが、今どきの言葉でいうと、デフォルトになるわけです。つまり前提になるわけです。そして、対米依存が前提になるということは、この国家が主権的なものをどのように扱っていくのかといったことについての国家の当事者意識といったものが溶けていくのです。溶解するのです。それがまず1つあります。
もう1つ、1960年代はまさに農村から離脱して、都会で働くという人が一気に出てくるわけです。当時、中学校卒業の人々で、都会に働きに行くという人々を「金の卵」といいましたが、まさにそういった形で農村から離脱者がたくさん出てきます。それによって故郷喪失をして、かつ都会での生活を楽しむ、あるいは暮らしていくということになります。
ということは、これがもっと加速していけば、家族から自由になっていくということかもしれないし、生活からさえも、あるいは自分が身を置いた自然からさえも解放されていきます。つまりは、そういった家族や生活や自然に縛られない私という概念が、1つの理想として打ち出されるようになるのも、このあたりからだといっていいでしょう。
と同時に、普通にパッと横を見ると、高度経済成長で一気に成長していきます。1年においてだいたい10パーセントのGDPの成長ですから、もう5年前が本当に過去みたいな世界だと思います。そうすると、見覚えのない風景が一気に拡大しますから、高度経済成長によって人工的環境が拡大していったといってもいいかもしれません。
あるいはこうもいえます。であるがゆえに、自分がどうしても必要だからこれが欲しい、ではなくて、必要から離れた、あれもこれも欲しいし、あれもこれも買えるから買っておこうといったような、消費生活がまさしく前面化していくのもこのあたりからだったといっていいかと思います。
その中で、やはり文芸批評というもの、あるいは文学というものは、今までずっと申し上げてきたように、日本人の自然に根を下ろしたような営みですから、その彼らがある種の焦燥感を覚え出すことになります。つまり、どこに根拠を置いて自分の言葉を整理すればいいのか、それが見えなくなってくるのです。
●父性原理と母性原理の視点で捉えた江藤淳の批評
それを最も分かりやすい形で語ったのが、江藤淳だっただろうと考えられます。彼は純粋戦中世代ではないのですが、敗戦時は13歳か14歳、そのあたりです。その彼がまさに戦後になって思春期を迎え、大学に入り、そして成長していくのですが、何かおかしい、何かおかしいといった感覚を持て余すわけです。
そして書いたのが、1967年に出される『成熟と喪失』という本です。この中で何をいっているか。簡単にいうと、伝統的な父性原理を失い、農耕社会的な母性原理をも喪失したとき、果たして裸の個人は何によって支えられればいいのか、といったような議論を、あるいは問いを提示したのだと考えていいのではないかと思います。
この場合の父...