●戦後を見据えて政治組織の立ち上げに力を注ぐ
さて、こうした形で東條政権を潰し、岸信介自身もまた下野することになるのですけれども、岸ののちの政治家としての障害を考えた時に重要だったのは、彼が1942年の翼賛選挙に出馬して当選しているということです。彼は現職の商工大臣のまま代議士になったのです。ただ、この後、軍需省に分かれた時に岸が軍需次官に格下げになるのですけれども、次官というのは、大臣はできるが政治家と兼任できないのです。なので、そのために代議士を辞職することになったわけです。
ただ、面白いのは、官僚や軍人が政治を全部動かしていくような時代は長続きしないのではないかということを、岸がこの頃から考え始めていたことです。つまり、何らかの形で国民と直接接点を持った政治組織をちゃんと立ち上げなければいけないのだということを、岸は戦争中に早くも考え始めていたわけです。
岸の興味深いところは、戦争中から何度も、新しい政党であるとか党組織のようなものを作ろうとしている点なのです。
国務大臣を辞めた後で、岸は山口県に戻るのですけれども、山口県で地元の人々と語らって、「防長尊攘同志会」という新たな政治団体を作っています。さらに太平洋戦争末期の1945年3月になると、今度は「護国同志会」という組織を国会の中で立ち上げています。岸は、表向きは指導者にならなかったのですけれども、実は裏で実質的なリーダーをしていたといわれています。
戦争というものがどういう形で終わるかということはまだこの時、岸はよく分かっていませんでした。しかしながら、戦争中からもう戦後というものを見据えて、政治活動を行うための組織をこの頃から作ろうとしていたわけです。
これは、岸の戦後の政治活動を考える上でも非常に興味深かったし、こういう政界との付き合いができる中で、後の1950年代に岸が自民党の中で有力な政治指導者として出てきて、首相になる中で彼を助けた側近の政治家たちと知り合っているのです。
例えば、川島正次郎という、岸信介の下で幹事長を務めた有力な党人派の政治家ですけれども、川島は戦争中に岸と知り合ったといわれています。
●A級戦犯処分から不起訴で釈放、葛藤の隠遁生活へ
しかしながら、岸にとって大きな計算違いとなったのは、日本が敗戦した後、彼は東條政権の閣僚であって、戦争を遂行したということからA級戦犯に指名されて、巣鴨プリズンに収監されたことです。1945年9月に岸は山口県で逮捕されて、その後、東京に連れていかれて収監されるのですけれども、最終的に1948年の12月に不起訴で釈放という形で表へ出てきます。だから約3年間、結局は起訴されることなくずっと牢屋の中に入れられていたわけです。
どうして岸は最終的に起訴されずに釈放されたのか。これはいろいろな話があるのですけれども、1つはアメリカが岸の将来性を買っていて、利用価値を見いだしていたからだという話があるのです。アメリカは比較的公文書がいろいろと公開されています。CIAの岸の文書は今現在もあまり公開されていないのですけれども、少なくともこの時期のアメリカの占領軍、あるいはアメリカ政府の文書を見る限りにおいては、それほどこの頃から岸に注目していたわけではなかったのだろうと思います。
おそらくそれよりも重要であったのは、何か政治的な意図があって不起訴、釈放になったというよりは、実は国際状況次第では、岸は起訴される可能性があったということです。
というのも日本は「東京裁判」という形で、極東国際軍事裁判というものが行われたのですが、ドイツでは同じように「ニュルンベルク裁判」というものが行われたのです。ニュルンベルク裁判は、戦争に勝った国が共同で軍事法廷を開いたものなのですけれども、ドイツの場合、ニュルンベルク裁判が終わった後で、今度はアメリカが単独で文民や資本家のような人を起訴するニュルンベルク継続裁判というものが行われていました。
実は東京裁判も本来であれば、この後、第2次裁判というものが予定されていて、おそらく第2次裁判になると岸は起訴される可能性が非常に高かったのです。ところがどうしてそうならなかったのかというと、冷戦が激化してきて、アメリカとソ連との関係が悪化してきました。アメリカもこれまでの厳しい占領政策を緩和して、むしろ日本を経済的に復興させて反共主義の防波堤にしたほうが利用価値があると政策を転換したわけです。
つまり、大きな国際情勢と冷戦という新たな国際環境が岸を助けることになり、彼は結局不起訴のまま釈放されて出てきたのです。
ただ、岸は出てきたのですけれども、その時、公職追放という指定にはかかっているので、すぐには政治活動が行えませんで...