●日本の将来を見据え農商務省を選択、統制経済を学んだ
岸信介が東京帝国大学(東京帝大)を卒業して、農商務省という官庁に入ったのは1920年のことでした。岸は大学時代の成績が非常に良かったこともあって、上杉慎吉教授から東大に残ることを勧められたのです。
しかしながら、自分は学者には向かないのだというので、官僚の道を選びました。当時、成績が優秀な学生が官僚になる場合は、どの官庁に入るかというと、多くは内務省という官庁に行ったのです。当時、日本国内で一番影響力があった官庁です。
同じ山口県出身の先輩に言ったら、やはり「内務省に入れ」ということを勧められたのですが、岸が面白かったのは、ここであえて農商務省という役所を選んだことです。当時、おそらく高等文官試験に通った中で決してトップクラスの人が競って行くような役所ではなかったと思います。
この農商務省というのは、2つの省(農林省と商工省)に分かれていくことになります。岸は商工省のほうへ進むのですけれども、どうして農商務省に入ったかというと、第1次世界大戦後の新たな社会において、岸自身「産業を発展させていくことが日本の将来にとって重要なのだと考えたからだ」と言っています。つまるところは、わりと周りの流れでいいところに行くというのではなくて、これからの日本の将来のようなものを見据えながら農商務省という役所を積極的に選択したということが分かるのです。
商工省の中で、当時、工務局という工業を中心にする部局が非常に力を持ち始めていて、結果として岸の見通しは非常に当たったわけです。岸はこの役所に入った後でどういう分野で専門性を確立していったのかというと、1つは「統制経済」というものでした。
つまりは自由放任で経済を任せていくというのではなくて、ある程度政府が経済をコントロールしていく必要があるのだということで、そういったものが先進的に行われていたヨーロッパで視察をして、勉強をしてくるということを若き日の岸は行います。
具体的に岸が留学視察に行ったのはドイツです。第1次世界大戦が終わった後のドイツはワイマール体制の下だったのですけれども、このワイマール体制の下でやられていた、いろいろな経済施策のようなものを勉強するために視察に行っています。
●負けん気の強い岸の政治家としての資質
ただ、岸が官僚としても非常に優秀で勉強熱心であったという逸話はいろいろあるのですけれども、面白いのは、単なる政策が分かるだけの優等生的な官僚ではなかったという点です。
岸の生涯を振り返った時に、若き日のエピソードとして必ず出てくるのですが、浜口雄幸内閣が当時、金の解禁をやろうとした時に、非常に緊縮財政を行うのです。 緊縮財政のためには公務員の給料を減らさないといけないということで、公務員の給料を1割減俸というものを打ち出したことがありました。
今だったらおそらく「1割減俸」と言われても、そのまま受け入れてしまいそうだと思うのですけれども、当時の官僚は非常に鼻息が荒く、岸はたちまち仲間たちの先頭に立ちます。そして官僚がストライキを組織し、猛反対します。もし強行するのであれば全員で辞職するという強い姿勢を打ち出して、見事にこれを撤回させることに成功したのです。
このエピソードはよくある武勇伝の1つなのかもしれないけれども、優秀なテクノラートというようなものでは括れない岸の原型が出ていると思います。つまり、政治サイドにもし気に入らないことがあれば喧嘩をすることも厭わない。喧嘩をしてでも自分の主張をちゃんと通そうというのが岸の考え方でした。この後の岸の生涯を見ても分かるのですけれども、けっこう岸は喧嘩っ早いのです。そういう意味では、戦うときはちゃんと戦えるという片鱗を官僚時代からすでに見せていました。これがのちの政治家としての飛躍につながっていったといえるのではないかと思います。
●統制経済が推進される世界の潮流の中で能力を発揮
当時、商工省の中で非常に影響力のあった、岸の先輩に当たる人に吉野信次という人がいました。吉野は大正デモクラシーの代表的な政治学者で、先ほど(前回)少し名前を触れました、吉野作造の弟に当たる人です。
この吉野と岸が、非常にいいコンビでした。商工省の中で経済の統制などを積極的に行っていくグループを作り、やがてこれが「吉野・岸ライン」といわれるような、商工省の中で非常に有力なグループになっていったのです。
この統制経済の研究をしていた岸たちが非常に重宝されるようになってきたのは、なんといっても1930年代以降です。なので、ちょうど彼が役所に入って10年くらいたったあたりからです。
なぜかというと、1つは世界恐慌が...