●岸にとって転機となった満洲への「左遷」
しかしながら、ここで岸信介にとっての大きな転換点になったのは、満洲へ行くことになったということです。
満洲というのは、満洲事変の後で関東軍が作った傀儡政権でした。軍主導で経済開発計画を立てて発展させようとしたのですけれども、それが行き詰まっていました。そういう中で関東軍が新しい経済開発計画を立案していたのですけれども、それをしっかり実行してくれるような優秀な人材を各官庁に来てもらいたいと働きかけていたわけです。
岸は工務局長の後で一旦日本を離れて、満洲へ渡って、実業部次長というポストに就きます。これは事実上、満洲という一国の産業、行政の指揮をするという非常に重い役職であったわけです。
面白いのは、しばしば岸が戦後に語っている記録を見ていると、あたかも自分から手を挙げて満洲へ行ったというようなことを書いていることです。しかしながら、近年の研究や当時の記録を見てみると、必ずしもそうではないところがあるのではないのか。つまりは、満洲に自ら望んで行って、満洲をしっかり育てたという岸の語りは、少し自己正当化しているところがあって、実際にはちょっと違ったのではないか。
当時の商工省の状況を詳しく見てみると、実は当時の商工大臣と、前回お話しした省内での吉野・岸ラインは折り合いが良くなかったのです。つまりは、吉野と岸が結局同時に左遷されてしまい、岸は満洲に送られたというのが、実は当時の実態であったといわれています。
●満洲の開発計画をお膳立てした椎名悦三郎
満洲での岸の活動を考える上で大変重要なのは、彼の商工省で3年後輩であった椎名悦三郎という人です。
後に椎名もまた自民党の政治家になって、1970年代に「椎名裁定」という、三木武夫政権を選ぶ時に非常に重要な役割を果たした政治家ですけれども、この椎名という人が実は岸よりも早くに満洲に送り込まれていました。岸が満洲にいた期間はおおよそ3年くらいですけれども、椎名は5年半、満洲にいたのです。
椎名が満洲でやったことは何かというと、大規模な予算をつけさせて、満洲の資源とか、農林水産業のような実態調査をやらせるということで、基本的には満洲の経済計画のお膳立てはほとんど椎名を中心にやられていたのです。
岸が満洲にやって来てから間もなく、満洲で「産業開発五カ年計画」というものが始まるのですけれども、実は岸が来た時点ですでに計画の大枠が椎名たちによって固められていたといわれています。そういった意味では、実は岸が産業開発五カ年計画を策定してやったというのは少し誇張があって、実際には椎名率いる官僚たちがやっていて、最終段階になって岸が満洲へやって来たというのが実態に近いのです。
岸の満洲時代の功績として大きなものは、鮎川義介という日本産業(日産)コンツェルンを満洲に導入させることに成功したことだとよくいわれていますけれども、ただ結果的にこれはあまりうまくいきませんでした。日中戦争がすでに始まっていて、結局は日産を満洲へ連れてきて、大規模な外資を満洲に導入しようというような構想がほとんど実現できなかったわけです。
そう考えると、満洲で岸がやったことというのは、実は実証的な歴史学ベースではけっこう評価が難しいところがあるのです。だから、そのあたりは注意して見るべきところなのではないかと思います。
●実力者との交渉や部下の活用で政治指導者として成長
椎名という人は、この後も岸の側近中の側近として商工次官を務め、戦後も岸派の重鎮になる政治家ですけれども、晩年になるにつれて実は岸とは少し政治的には距離を置いていきます。椎名が晩年に語った記録のようなものがあり、それなどを見ていると、やはり岸自身が語っている満洲での行動とは少しトーンが違っていて面白い。
つまるところは、岸という人は優秀なのだけれども、全部自分で立案したというよりは、岸は大きなところで、例えば関東軍であるとか、政治家のような人とちゃんと話をつけてくれる人なのだと。だから実際、細かいところはしっかりと部下が行うけれども、椎名に言わせると「自分がやった」ということが言いたいわけで、そういうところが岸にはあったのだというところが見られるのです。
ただ、そうはいっても、やはり岸という人は大物の商工官僚であって、陸軍、関東軍にしてみたら、岸を満洲に呼べたということ自体に大きな意味があったと思うのです。
実際、岸はその期待に応えて、満洲で関東軍の参謀長であった東條英機のような実力者と関係を作ることになります。 さらに岸が満洲へ行って非常に大きな権限とお金を与えられたことで、部下を...