●経済体制の見直しに着手するも挫折を味わう商工次官時代
さて、3年間の満洲生活を終えて岸信介が日本へ戻ってきたのが1939年のことでした。1939年、岸は商工次官になります。
商工次官になった時に岸が取り組んだのは経済改革でした。具体的には、当時いわれた「経済新体制」というものを構築するのが商工次官としての岸の大きな任務でした。
というのも、この時すでに日中戦争が始まっており、しかもそれが非常に長期化する雰囲気になっていました。そういう中で、いよいよ今後日本が総力戦を戦い抜けるような経済体制に再構築しなければいけないという圧力が強まっていたわけです。
しかしながら、総力戦を戦うために経済新体制を作るということは、明治以来、日本がやってきた市場経済の基礎というものを根本から改造しなければいけません。そういう中で岸は、満洲でやってきた経験をもとに、今度は日本本土でより大規模に総力戦体制を耐え抜くための経済体制を作ろうとします。
やったことはいろいろあるのですけれども、一番象徴的なものとしては産業別に「統制会」という経済団体を作らせます。統制会を作って、各企業が必要以上に利益や利潤を得ることをやめさせます。どれくらいの品物をどれくらいの量作るかについて、統制会のみんなで協議して、詳細な生産計画を作り、それで効率的な生産をやっていくということです。つまるところ、非常に効率的に大量生産を可能にすることで、長期的な戦争に勝ち抜ける経済体制を作ろうとしたわけです。
ただ、ここまでくると、それはかなり社会主義的な経済計画を本格的に日本経済に導入するという考え方なのです。当然ながら、こういった改革をやろうとしたときに、政界であるとか、既存の財界との対立を生むことになります。
当時(第2次)近衛内閣で、岸の上司に当たる商工大臣をやっていたのは小林一三という人物でした。小林は阪急東宝グループの創始者で、関西財界の大実力者です。この小林と岸が衝突することになります。小林はこうしたある種の経済計画を導入しようとする岸らに対して、赤の思想に基づいている、つまりは「共産主義者ではないのか」ということを匂わせることで、非常に批判をするわけです。
結局、こうした中で岸は、1941年の初めに商工次官を辞任することになります。岸にとっては2度目の挫折であったわけです。
●得意の統制経済政策が行き詰まりを見せた商工大臣時代
しかしながら、間もなく岸信介はより大きな舞台を与えられます。というのは、この後、満洲時代に一緒であった東條英機が東京に戻ってきて、彼を首相にする東條政権が成立したからです。
東條政権は、満洲以来の一緒に仕事をしてきた仲間であった岸を商工大臣にするということで、彼は最終的に次官を辞めた後で大臣に抜擢されます。この時の岸の年齢が45歳です。45歳でいよいよ商工省のトップになったわけです。
岸が商工大臣になった時に、まずどういうことをやったのかというと、満洲時代以来の自分の腹心であった椎名悦三郎を連れてきて、椎名を次官に抜擢します。その他の局長級の幹部ポストも全部自分の息のかかった人間で固めてしまいます。息のかかった人間を入れるのですけれども、同時に若返りも図ります。そういう中で自分の意思が商工省全体に通るような体制を、岸は作ったわけです。
結局、このまま東條政権はアメリカとの戦争を決意するということで、太平洋戦争を迎えることになるのですけれども、岸は商工大臣として開戦内閣の一員として加わったわけです。
しかし、太平洋戦争はご存じの通り、緒戦は快進撃だったのですけれども、アメリカ側が反撃に出てくると、当然国力差が圧倒的なものがあるので、非常に追い詰められていくことになります。
商工大臣として岸がやらねばならなかったのは、とにかく戦争を戦うための生産増強です。生産を増強するためには統制会を強化しないといけない。ところが、統制会を強化してもやはり限界がある。戦局が悪化すると、岸が組んだ統制経済のあり方はどんどん行き詰まりが見えるようになってくるのです。
1943年11月に商工省が軍需省という名前の組織に改組されました。軍需省に改組された時に軍需大臣は東條首相が兼任することになるのですけれども、岸は、今度は軍需次官という次官ポストに格下げになるのです。格下げにはなるのですけれども、兼任国務大臣というよく分からない肩書きで、結局東條を支えることになります。
●軍国主義の潮時を感じていた岸と東條の対立
しかしながら、1944年くらいになると岸と東條との関係が非常に怪しくなってきます。きっかけになったのは、東條が、生産が伸び悩んでいる製鉄部門を軍需省から切り離そうとしたこ...