●議席獲得からわずか4年で総理大臣にまで上り詰めた
1953年に自由党に入党した岸信介なのですけれども、ここから急速に保守の政界の中で頭角を現していくことになります。
ある種、戦後政治史のおさらいのような話になるのですけれども、鳩山一郎の一派が自由党を離党して民主党という党を作ります。その時に岸も行動をともにして、民主党の初代幹事長になります。
さらにその後で、1955年に自由党と民主党が保守合同という形で合併して、自由民主党という党が結成されます。いわゆる保守合同の中で岸は、引き続き自民党の初代幹事長になるわけです。この後、石橋湛山政権ができた時に外務大臣になって、石橋が病気で退陣した後に、1957年に首相に就任します。
ここまでの履歴を見ると本当に急速で、1953年に議席を得た人が1957年に総理大臣になるということは今ではまずあり得ません。政界に復帰してたった4年で首相に上り詰めたわけです。
どうして岸が急速に政治の世界で台頭できたのでしょうか。もっというと戦争、あるいは敗戦とA級戦犯での収監をはさんで、不死鳥のように復活したのはなぜなのかというところです。
1つには、やはり岸自身の能力と運というのもあると思います。非常に運があって、度胸がいい。喧嘩をするときは喧嘩できるし、決断するときにさっと決断ができるというのが、単なる優等生的な官僚ではなかったのです。
●計画経済導入を求める時代のニーズに合致した岸の手腕
ただ、このシリーズのお話の1つの大きなテーマでもあると思うのですけれども、経済と政治の双方で岸が持っていたビジョンが時代に適合していたということが大きかったのだろうと思います。
経済のお話からさせてもらうと、戦争を通じて統制経済という動きが大幅に強化されたのです。最終的には戦争に負けてしまうわけですけれども、ただ統制経済を通じて国家と経済、社会の関係が、第2次世界大戦の期間で大きく変化しました。占領期に総理大臣を長く務めた吉田茂は、非常に統制が嫌いで、経済計画も大嫌いというタイプの人でした。
ところが、アメリカの占領が終わると徐々に吉田政権も政治基盤が弱まってきます。同時に批判されるようになったのは、日本が経済的に復興するためには自由放任の経済だけでは限界があるということです。つまり、かつてやっていたような経済計画のようなものを復活させて、生産性を向上させていかなければいけない。戦争中の生産性向上は総力戦を戦うためだったのですけれども、戦後も同じテーマが、今度は日本の経済復興のために必要なのだという声が強まってきたのです。
1950年代に政界に復帰した岸が最初に期待されるのは、こうした経済政策のスペシャリストとして、です。
岸が政策争点として掲げたのは、アメリカの援助に依存する経済体質から脱却して、日本が経済的に自立する必要があるということです。そのためには経済計画をしっかりと導入しなければいけないということを強く主張したのです。とりわけ民主党の系統にそういうことを主張する政治家が多くて、岸はまさにその中心でした。
自由民主党として一緒になった時に、こういう経済計画を非常に重視して、むしろ経済計画を主張していたのは社会党のほうだったのです。社会党に対してしっかりと対抗していくということを打ち出しました。そういった意味では、いわゆる時代が求めるニーズに対して、岸が掲げていた政策が非常に合致したということは間違いないのだろうと思います。
実際に岸はこの後も非常に経済計画を重視します。岸自身が総理大臣になった後は、長期経済計画を策定していきます。
もう1つ、民主党系の政策として重要であったのは、国民年金制度や福祉制度の充実なのです。
実は戦争中からもそういう構想は存在していました。社会福祉を重視することで、今後労働者の安定した職場の環境を作っていくという考え方なのです。そういったものを岸政権は積極的に打ち出していきました。
保守か革新かという対立軸で評価すると、実は社会党が言っているから自民党もやろうと言ったというよりは、むしろ戦争中、あるいは戦前からの構想や考え方を岸が戦後も引き続き追求しようとしたのです。それが非常に時代のニーズに合致したということはいえるのだろうと思います。
つまり、自由主義経済を前提とするという意味では、戦争中とは少し違うのですけれども、1930年代の戦時体制でやられていた政策体系と連続性を持ったものを岸が追求しようとしたということは間違いないのだろうと思います。
●近代的な党組織の形成を目指した組織改革は実現せず
もう1つ、岸が戦後世界で重宝された理由は、政治の意思決定の中心にあるような強力な政党を...