●自民党発足当初から「政策通」として重要な役割を担当
こうして、ある種、岸信介の側近の1人として政界に入っていき、そこで急速に福田赳夫は頭角を現していくことになります。福田は政治家として政界に入った後で、急速にどんどんと出世していきます。
その1つの要因は、岸が大きく成長していったことです。岸は非常に短い期間で総理大臣になったので、その岸に引き立てられたことも大きいのです。
重要だったのは、最初のほう(第2話)に言った、自分以外の大蔵官僚は全員、吉田茂になびいたけれども自分だけはそうしなかったということです。福田は岸を選んだのです。
実は、岸もそうで、椎名悦三郎のような人もいるのですが、大蔵省出身で財政政策がよく分かっている側近は少なかったのです。
そういう意味では、福田の存在は、岸が行った日本民主党系統の政治家の中では貴重な存在でした。大蔵省出身であり、政策が非常によく分かっている。「政策マン」という言い方をしますが、そういう中で福田は存在感を示すようになってくるのです。
特に重要だったのは、日本民主党が自由党と合併して、1955年に自由民主党が結成されたことです。今の自民党です。この結党のプロセスの時に、福田が非常に大きな役割を果たします。
最初、自民党が新しい党の綱領をつくる時に、「経済計画を採用して、福祉国家を建設する」という文言がはっきり入ってくるのです。これは当然ライバルの野党、社会党がいち早くそういう政策を入れていたこともあるのですが、実はこれを日本民主党と自由党とでどっちが熱心にやっていたかというと、日本民主党のほうなのです。
というのも、自由党は良くも悪くも吉田がワンマンで動かしている政党です。これに対して日本民主党は、政策をいろいろな議員から吸い上げようとしていました。福田は、実は保守合同で自民党ができる前、日本民主党の政策綱領をつくる時に非常に関与しており、この中で、例えば医療制度や年金制度であるとか、社会保障政策の充実など、福祉国家を建設していくのだという進歩的な政策をいろいろと入れているのです。
そこでできた日本民主党の政策綱領が、やがて自民党ができた時にけっこう入り込んでいっています。自民党の政策綱領の中に、この時の日本民主党の政策が大きく採用されることになりますし、こういう綱領をつくる会議などで、福田赳夫が参加しているのは記録でも見ることができます。
そういった意味では、1955年にできた自民党の基本的な政策の方向性を決める上で、やはり政策通としての福田の役割は非常に大きかったということです。
●2大政党制を見越した政務調査会の構築
もう1つ、自民党ができた初期の頃に福田が果たした大きな役割は、「政務調査会」という組織が自民党の中にありますが、この政務調査会(政調会)の制度を構築したことです。
というのも、政調会も、先ほどの吉田が率いる自由党では一部の政策に詳しい官僚出身の議員と、政策がよく分からないその他の議員たちで構成されていて、割と吉田と一部の側近で決めてしまうという空気が強かったのです。
日本民主党はそうではなくて、幅広く議員の声を吸い上げるために政調会を重視していました。
福田自身、これからは自民党と社会党が2大政党制になっていくだろう、この2大政党が謀略や駆け引きではなくて、政策を競い合う時代が来るのだと考えました。そうであるならば、政務調査会という組織をきっちり作った上で、党としてちゃんと政策を打ち出せるようなものにしなければいけないということを考えたのです。
そういう中で、福田と他の議員たちが中心になってつくった考え方は、自民党の党としての政策を決める権限を政調会に集中させるというものです。法案を閣議で決定する前に、政調会がちゃんと了承しなければいけないということで、党が政府に対して政策をつくるときに関与できる仕組みをつくったわけです。
●知識と人脈を生かし、予算編成で真価を発揮
もう1つ、各省庁に対応する政調部会をつくって、所属している自民党の議員はこのどれか1つの部会に加入しなければいけないようにするのです。
要するに、議員が勝手に自分たちの個別の利益を政府に対して働きかけないように、ちゃんと政調会で全部吸い上げて、議論をして、党として一体となって何か打ち出していこうという仕組みをつくったのです。これをやることによって、政府と与党が一体となって政権運営をできるのだろうという狙いがあったわけです。
この政調会をつくって動き始めた時に、最も重要なのは予算編成です。どこの官庁の事業に予算をつけるかという、予算編成が非常に重要になってきます。
福田が一番真価を発揮したのは、この予算編成においてです。
1950年...