●昭電疑獄事件を契機に大蔵省を退職、地縁を頼りに選挙活動を開始
こうやって見るように、福田赳夫は、非常に日本の財政、あるいは汪兆銘政権、中国大陸などでも重要なポストを渡り歩きます。本当に、重要なポストしか歩いていない人なのです。間違いなく主計局長をやって、次は大蔵次官になることが確実と見られていました。
しかし人生、何が起こるか分からないもので、この後、「昭電疑獄事件」というものに巻き込まれて、福田は賄賂をもらったという疑惑をかけられて、逮捕されてしまうことになります。これは結局、後に裁判を闘って無罪判決になるわけですが、この事件で逮捕されたことで福田は大蔵省を休職して間もなく、1950年に大蔵省を退職することになったわけです。
大蔵省を退職した福田がその後どうするのかと考えたときに、1つの選択肢は政治の世界に入って政治家になるということでした。実はこれは、当時の高級官僚ではけっこう珍しくない選択肢だったのですが、福田も大蔵次官まで上がったらやがては役人を辞めて政治家になろうかということを考えていました。
そもそも福田の実家は、お父さんもお兄さんも町長をやっている政治家の一家です。だから、結局は政治家になろうということで、結果的に選挙活動を始めることになります。何か既存の組織に頼るのではなくて、まさに自分の地元の地縁、あるいは血縁などを頼りにコツコツと支持を広げていきました。そのために最初も無所属で出馬をしています。
●大蔵省出身議員の中で、福田1人だけ吉田茂になびかず
こうした中で、1952年の1回目の選挙で、福田は衆議院議員に当選します。以後、引退するまでずっと当選し続けるのですが、福田は無所属だったけれども大蔵官僚として財政政策もかなり経験のある即戦力です。
だから当選した後で、社会党などからも、「うちに入ってほしい」と誘われたり、あるいは当時の与党であった、吉田茂率いる自由党も、自由党の中で大蔵省の先輩であった池田勇人が吉田の側近だったので、池田を通じた入党勧誘が福田のところにあったりしました。
ただ、面白いことに福田はこれらを全部断って、「私は無所属を貫きます」ということを言うのです。
これは福田自身が回顧録の中で書いているのですが、非常に彼の心意気を示していると思います。当時の国会には大蔵省出身者が、参議院を入れて24人いて、そのうち「吉田の自由党に属する者が23人で、属せざる者は福田赳夫ただ1人であった」と。つまりは、「(他の)全員、吉田になびいたけれども、俺はなびかなかったぞ」ということを福田は、晩年に書いた回顧録の中に記しているわけです。
ただ当初、無所属議員が集まって無所属クラブをつくるのですが、やがて福田が惹かれていくのは岸信介です。岸と政治行動をともにするようになり、岸とともに自由党に入党するのですが、その後、岸が自由党から除名されます。その時、岸に続いて、行動をともにして脱党しています。1954年に新たに結成された日本民主党という党に、福田は加わることになるわけです。
●日本経済の復興と政界の刷新――岸と福田の考えが共鳴
ここで1つ、福田の生涯を見る上で重要だったのは、「どうして彼は吉田ではなくて、岸に接近したのか。岸と政治行動をともにしたのか」というところです。
1つの見方としては、福田自身の群馬の選挙区に、吉田に近い自由党の候補がいたということがあると思うのです。だから、同じ党から出ると非常にやりにくいという、選挙区事情というのはあったと思います。
ただそれ以上に、岸が掲げる政治信条と福田のそれが比較的、似通っていたというところは見過ごせないところではないかと思います。というのも、福田が立候補した時に掲げたのは日本経済を復興させるということと、もう1つは政治の世界、政界を刷新するということだったのです。
吉田時代はアメリカに占領されていました。アメリカの占領が終わった後も吉田は非常に親米路線なのです。それも極度の親米路線になりました。だから、占領体制から日本を脱却させるためには、経済財政面でもしっかりやっていく必要があるのだというのが福田の考えだったのです。
この「日本経済の復興」と「政界の刷新」という2つの要素を詳しく見ていくと、一つ目ですが、経済政策的には吉田流の自由放任経済に対する反発です。
自立した経済体制をつくるためにはどうすべきなのかというと、吉田がやっているような自由放任ではダメで、自由放任でアメリカからの特需に依存している経済では、福田の言葉を使うと「植民地精神的なものなのだ」と。そうではなくて、日本が自立するためには総合計画をちゃんと立てて、その下で調和を取って、今後自主経済を達成していく...