●「根強い派閥政治」との闘い
―― 佐藤政権の後、日本にとってかなり政治家的に経験知も実績も出来上がった福田赳夫には、まだ十分な若さもありました。そのままいけば、だいぶ日本のその後の方向というのは変わっていましたよね。
井上 いろいろなところで変わっていたのではないかとは思います。1970年代は、非常に国際的にも大変な時代でした。そういうときに日本政治は、派閥抗争でかなりエネルギーを吸い取られたと思うのです。
―― そうですね。
井上 そういう中で、例えば、あの三角大福の順番からいえば、福田が年齢的にも佐藤栄作の後にまず首相になって良かったわけです。だから、福田が数年間ぐらい長期政権を引き継いで、その後に年齢で行くと大平がなるわけです。むしろ、その方がより日本が長期的な課題に取り組めたのではないかという感じはあります。これはif(イフ)の話なので、非常に難しいですが。
―― 派閥抗争において、岸信介も福田も、「やはり戦前型の派閥型政治はいかんな」という考え方だったのに、所得倍増論をやる池田勇人の時あたり、岸政権を倒すあたりからもう1回復活してくるということはすごく皮肉ですね。
井上 そうですね。系列化されていって、また生まれてくる。何度も派閥を解体しようとするのだけれど、やはり潰せないわけですね。
もう少し続きの話になると、田中角栄はロッキード事件で逮捕された後で、今度は自分が無罪を勝ち取るために、自分の派閥をやたらと巨大化させていきます。それが、派閥に事務局ができて、制度化されていって、どうにも手が付けられないようになっていく。それが1つの政治改革、つまり「1990年代の政治に金がかかりすぎる問題」の改革へとつながると思うのです。
福田は1995年に亡くなるのですが、それこそ1990年代まで金権政治の打破を唱え続けて、常に田中を牽制し続けるのです。福田の理念自体は正しかったと思うし、それゆえに彼が時代遅れにならず、ずっと政界で重きをなし続けた1つの要因なのだろうと思います。
●天下国家のことを考えれば、生活の面倒は見てもらえる時代
――福田の経歴としてはものすごいエリート教育(を受けているの)ですよね。
井上 そうですね。
―― 今の財務省に入った人では考えられないような感じの教育ですよね。
井上 大蔵省に入った人の中でも、福田のキャリアは特殊です。本流のポストしか歩んでいない人です。最初から最後まで将来を嘱望されて、その期待に応え続けた人だと思います。
―― でも、そういうスーパーエリートであるにもかかわらず、まったくおごらないと。何がこういう立派な人を生み出すのでしょうか。
井上 福田は、お父さんもお兄さんも政治家だったので、地方の名望家の出身だと思います。しかし、幼少期を見ていると、実家が裕福で甘やかされて育てられてきたわけでもないですし、農家の人と一緒に仕事をしたりする中で、わりと小さい頃から社会を見てきていると思います。それが、エリート官僚になって戻ってきた後は、地元の人たちの支持で政界へ送り出されていく。本当の意味で、地方の名望家が人々の暮らしをフラットに体験したのちに政治の世界に押し出されたということで、うまく機能した例なのだろうと思います。
ただ、近現代で見ても、日本中でそれがうまく機能していたかというと、なかなか少ない事例だったとは思います。
―― ある種の日本型エリート製造装置が機能した時代の産物ですね。
井上 まさにそうなのだろうと思います。大蔵省では若いエリートを外国に行かせて経験を積ませていましたが、戦前では内務省や軍もまた同じようにエリートを輩出していました。
ところが、戦後になると内務省は解体され、軍人などはパージされて、いなくなったりする中で、大蔵省の人材が相対的に重要になりました。戦前の古き良き旧制高校から帝大、さらに大蔵省での教育を受けたことが、福田にとっては非常にプラスに表れていたことは間違いないと思います。
逆にいえば、役所も立派で、役人は天下国家のことを考えればいいと。もっというと、(役所には)天下国家のことを考えれば、あとの生活はきちんと面倒みてもらえる保証もあったと思います。役所が役人をしっかり守った時代であったと思うし、そういう自私的な利益を考えずに、天下国家のことだけを考えよという教育が成り立った時代だとは思います。
●高度成長期の日本人のメンタリティと噛み合っていた田中角栄
―― なんともいえないのは福田と田中(の関係)で、叩き上げで信じるものは数、力という感じの(田中の)リアリストの部分と、理念重視型の福田が闘った時の、どちらかというと1970年代から1980年代にかけての状況というのは、田中的なものが日本人のトータルとして、やはり好きだったわけです...